見出し画像

2.実家に帰ったら、イージーモードとハードモードが待っていた話

こんにちは!京都宇治の北岡園広報部です。

今日、お話しするのは、当園の主、北岡弘樹についてです。

前回のお話しでは、実家に帰ってくるまでの紆余曲折ストーリーでした。

さて、時はさかのぼること20年ほど前になります。

実家に帰って、父とその弟2人の作業を手伝うことになったのですが、最初のころは

お茶の袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
袋詰め
、、、


写真は、袋詰めしたものを真空処理するところです。

そんな毎日だったといいます。

これが、なんと丸3年ほど続きます。

袋詰めが何も簡単すぎる作業だとも言いませんが、本来の製茶業といえば、お茶のブレンドや火入れ、茶葉を揃える作業などがイメージされます。

そういった、お茶に関することを何も教えてくれないまま、時は過ぎ去っていきます。
Time goes by。
「背中を見て学べ」
先代はそういう方針だったのでしょうか?

園主曰くですが、「いきなり息子が帰ってきたのは嬉しいものの、すでに3人で回っている作業の中に、「どこにどう割り当てるか、何を学ばせれば、仕事をさせればいいかが分からなかった」のではないか」といいます。

これは私広報中の人もよく聞く「事業承継あるある」だったりします。自分自身も、手取り足取り教えてもらったわけではなく、長い年月を先々代などと働くうちに目に手に覚えていったことばかりで、『どう教えていくか』ということが頭にない人が多いのです。

※中小企業でも、農業とか漁業でもよく聞く話です。

一方で、実はお茶の事を学ぶ機会も生まれていたのです。ちょっとそれは後で話します。

さてそうはいっても3年を過ぎたころ(当時園主30歳)から、仕入れの同行をするようになります。ようやくお茶業後継ぎデビュー!!

とはいえ、お茶の仕入れもそんな一年目からいろいろわかるわけでもなく、とにかくセリ・入札の様子や産地を覚えるところからスタートします。

そんな中、突然訪れるターニングポイント。

平成16年、先代社長が突然入院となります。しかも4月に。


お茶の業界の4月。それは、一年のスタートであり、ここから過酷かシーズンが始まります。仕入れを担っていた先代社長の入院は超々一大事です。北岡園最大の危機。。。?

仕入れに同行していたとはいえ、園主が経験したことはわずか。とはいえ、先代の弟さんは仕入れの仕組みをほとんど知りません。結果、翌年からの仕入れは園主が一人ですべて行うことになりました。

どうやって最初のころは仕入れていたのでしょう?

まずやったのは、過去どんな仕入れをしていたかを徹底的に調べることでした(その2週間ほどほとんど寝られなかったそうです)
そこで、どんなお茶をどのくらい仕入れていたか、現在その在庫はどのくらいあるか、今期どのくらい買わないと足りなくなりそうか、、、細かくは書けませんが、この作業をしたことが、危機を回避できた原因の1つ目だったと思われます。

しかし、肝心のお茶の目利きはどうするか?

園主が行ったことは、「他の製茶業の会社はどうやっているのか」「お茶の香りや味をなんと表現しているのか」を学ぶことでした。

「茶審査技術競技大会」には、大手の会社スタッフさんも参加します。もちろん、その会社の中心人物も会場にいますので、様々な解説を参加スタッフに対して指導したり、アドバイスします。
そういった現場に近寄っていき、どのようなことをお話ししているのかを少しずつ学んでいきます。

ある日、園主は、以前から付き合いのあった製茶会社の社長にいろいろ質問する機会を得ました。その社長は、ライバル会社でありながらも懇切丁寧に様々なことを教えてくださったといいます。

それもそのはず、その社長さんも若いころ、北岡園先代先々代の社長からいろいろ教わったというのです。

もう一つ役に立ったのは、製茶業界の若手の集い(青年団)でした。経営をいずれ担うであろう某有名茶園の御子息など、多くの方同士が集う会に出席することで、お茶の勉強も進み、お茶の良し悪しなどもなんとなくわかるようになってきたといいます。この、お茶のイメージが自分で着くようになっていたことが北岡園の危機を救ったことの2つ目だといいます。


青年団のイメージ、、、ではありません

決定的に園主の自信を高めるものになったのが、茶審査技術競技大会への出場と、そこでの上位進出という経験でした。

さて、今回はここまでで、次回は、製茶業界の若手のお悩みについてお話しします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?