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松屋で出会ったおばあちゃん、天使かと思った

松屋ではチーズ牛丼しか頼まない。肉に絡んだチーズを大事に大事に米のうえで育ててから、固まったチーズを後悔とともに食らうのが、私は好きなのである。

そんな話はどうでもいい。

ある日、松屋でおばあちゃんに出会った。手押し車を持っていた。私がよく行く松屋は、自動ドアではなく、重ための横開きドアになっている。腰や膝が悪そうな、手押し車を引いたおばあちゃんにとっては、松屋に入るのを阻む最初の難関である。

たまたま近くに居合わせた私は、おばあちゃんが入店するのを手伝った。

そのあと、おばあちゃんは食券形式である松屋のスタイルに戸惑いまくっていた。食券を買えていない。セルフサービスである水も取りに行けていない。私はまるで今日から松屋でアルバイトを始めた新人見習いのように、気づいたら働いていた。

「すみません、牛丼の小盛りが2つ注文されかかっているので、1つは取り消しますね」

「セットじゃなくてもいいですか? 牛丼の小盛りを1つでいいですか?」

「dポイントカードはお持ちですか?」

「お支払いは現金ですか?」

私は私にできる範囲で、できることをしただけなのだが、おばあちゃんはお礼を言ってくれた。「ありがとう」と言ってくれた。なんだか、向けられた言葉が心に落ちていくにつれ、泣きそうになってしまった。

ーー

取材が上手くいかなかった。完全に私の落ち度で、てんで素人みたいな取材をしてしまった。まだライター始めたてのニューカマーのほうが質の良い取材ができていただろう、といま思い出してもハラワタがしくしく音を出して傷みそうな取材だった。思い出したくない。お腹いたい。

松屋でおばあちゃんのお手伝いをしたのは、そんな日の翌々日くらいだった。

私の人生にハッキリとドス黒い文字で刻印された「ボロボロカスダメ取材」の歴史を抱えたまま、松屋でチーズ牛丼を食べるしか脳がないような私に、おばあちゃんは「ありがとう」と言ってくれたのだ。

ライターの仕事を始めて6年になるのに、いまだに上手く質問さえできない体たらくな自分の存在を、初めて会ったおばあちゃんは認めてくれたのだ。

天使だと思った。

あのおばあちゃんは、私のなけなしの自己肯定感、自己認識能力がこれ以上目減りするのを止めるために天から派遣されてきた、位の高い天使だったのだ。そう思うくらいに、私は救われた。

もうダメだ死んでしまいたい、とまでは思わなかったけれど、こんな私が頑張って生きている価値は、そしてこれから生き続ける意味はどれくらい残されているんだろうかと考えてしまうくらいには、力が抜けていた。

おばあちゃん、ありがとう。

ありがとうと言ってくれて、ありがとう。

私は、人に優しくしたんじゃない。おばあちゃんを助けたんじゃない。

人に優しくさせてもらえたのだ。人を助けることで、自分を助けてもらえたのだ。

最後に一言。松屋のチーズ牛丼はすこぶる、美味しいです。

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