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私は掃除ができない

私は掃除ができない、と言ってしまうと「掃除ができない人間なんて存在するのか?」とツッコまれるかもしれない。もっと厳密に言うと「掃除をするタイミングを見極めるのが絶望的に下手」くらいだろうか。

生きている限り、部屋は汚れる。「なんで?」と思うところに髪の毛が落ちていることも、いつ食べこぼしたかわからないお菓子の欠片を発見することも、日常茶飯事。ベッドの下はなるべく覗き込みたくないし、窓の拭き掃除もしたことがない。

掃除は、やろうと思えばできる。しかし、一般的に「そろそろ掃除のしどきだろう」と腰を上げるタイミングを見事に逃してしまう。逃す、というよりも、見送っている感覚に近い。ああ、掃除だね、いい加減、掃除をしたほうがいいね……と思ってはいても、実際に掃除機やハンディクリーナーを手に取るまでに、人類が月に到達するレベルの果てしない労力と覚悟が要る。

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30歳になるくらいまで、私は「大人たるもの、掃除くらいできて当たり前」だと思っていた。

もちろん当たり前である。掃除くらい当たり前にできなきゃいけない。社会人としての最低限スキルである。

しかし「まともに掃除さえできない人間を寄ってたかって糾弾する構図」は健康的ではない、とは思う。

想像してみてほしい。30代女性一人暮らし、掃除や整理整頓が苦手で、誰もがギョッと振り向く汚部屋に住んでいる。この文字列をひとめ見ただけで、ほとんどの人が「かわいそう」「手の施しようがない」「ご愁傷さま」と手を合わせるのではないだろうか。

これが「50代男性独身」になっても、たいして印象は変わらないだろう。「一人暮らし」「独身」といったワードが、これまた同情や郷愁を誘う。せめて整理整頓の行き届いた部屋に住んでいれば悲壮感は薄れるが、汚い部屋に住んでいるというだけで、世間の目は驚くほど変わる。

掃除や整理整頓ができない人間のひとりとして、言わせてほしい。確かに我々は掃除ができない。とても人様には見せられない部屋に住んでいる。でも、言ってしまえばそれだけの話じゃん? 真顔で小学生みたいなことを言いますが、誰に迷惑かけてるわけでもないじゃん?

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私が三十路手前で東京へ上京してきたころ、心底お世話になった(そして今もお世話になり続けている)歳上の女性がいる。彼女も、どちらかといえば掃除や整理整頓ができないタイプ。でも健やかに生きている。なんなら、誰よりも楽しく自由に人生を謳歌している。

当時、何も知らない雛鳥以下だったわたしが、必死の思いで東京という魔鏡に一歩踏み込んだ瞬間、彼女に出会った。世間のものさし?大人の女性たるもの掃除くらいできて当たり前?ハ?みたいな態度を地でいっている彼女に。

世間の人は言う。掃除洗濯炊事くらい、自立した社会人ならできて当然だ。とくに女性なら、身の回りのことくらいできないと結婚もできないぞ。口に出しては言わずとも、ほとんどの人が自然にそう考えるはず。それは悪いことではない。だって、誰もがそう言い聞かされながら育ってきたから。それが立派な大人になることだと、教えられてきたから。

自立している人は素敵だ。周りが何も言わずとも、日頃から整理整頓を心がけ、掃除が習慣化している人。健康的だし、美しい。

けれど、相対的に「掃除さえまともにできないヤツはダメ人間」みたいな見方には、全力でNO! と言っていきたい。確かに、掃除はできない。だけど、別にそれでもいいじゃん。できなくったっていいじゃん。いつかできるようになるかもしれないんだし、コツコツとできるところから、一歩ずつ成長していきたいよ。できない=ダメじゃない。まだまだ伸び代があるんだと思いたい。

勘の良い方はすでに気づいておられるかもしれないけれど、このエッセイは、「できない自分を見つめ直す」が大きなテーマだけれど、同時に「できない自分ごと、まるっと肯定する」を目指すものです。盛大な自己正当化です。

でも、それでいいじゃないですか。できないぶん、ほかにできることがある。寄ってたかって「できない」を非難する社会より、お互いの「できる」を持ち寄って褒め合う社会のほうが、息がしやすい。少なくとも、わたしはそう思います。

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