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「いつかささやく」の話

2023年4月1日、詩客に連作「いつかささやく」12句を以下のとおり掲載いただいた。
いつかささやく 楠本 奇蹄 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト (sakura.ne.jp)

本作は、潜伏キリシタンを描いたものであるため、ところどころ馴染みのない用語が登場する。もちろん作者としては必然性をもってこれらの語を用いているつもりだが、一方で読みの妨げになることも危惧している。
そこで本稿では、前半に一般的でない用語の解説を、後半で句作の経緯や参考文献を、ネタバラシを交えて紹介する。
なお、いわゆる隠れキリシタンについては、その呼称や表記に「隠れキリシタン」「隠れ切支丹」「潜伏キリシタン」「吉利支丹」など揺らぎがあり、その対象や文脈も微妙に異なるのだが、近年の研究も踏まえて、ここでは連作の舞台とした17~19世紀の実態をあらわす「潜伏キリシタン」に表記を統一する。

1.用語解説

おひさまを鋤き込むおらしよ口中に
「おらしよ」はオラショ、潜伏キリシタンにおける祈りの文句のこと。ラテン語のoratio(祈祷文)に由来する。本来はキリスト教の教義に依るものであったわけだけれど、禁教下で密かに口承のみで伝えられるうち、意味が失われて呪文のようになっていった。洗礼や航海、農事など状況に合わせて様々なオラショがあり、行事であっても心中や口の中で唱えるか、見張りを立てて唱えるなどしていたようだ。

春泥で拵へるなら笑ふえわ
「えわ」はEva(エヴァ)の転訛で、旧約聖書「創世記」におけるエバ、イブのこと。禁教下で潜伏キリシタンに受け継がれてきた書物「天地始之事」には、創世記のアダムとイブは「あだん」と「えわ」として登場する。「天地始之事」の最古の写本は文政年間のものだというが、最初に書かれた年代や著者など不明なことが多い。口承に基づくためか神道や仏教、民話との混淆が著しく、その内容は興味が尽きない。この句では、初期の潜伏時代に文字を知らない農村の信徒も「天地始之事」の逸話を知っていることを想定している。でなければ、この書物が禁教時代を生き延びることはできなかったように思うのだ。

落ひばり妖蛇のをらぬ七日目の
キリシタンの墓所や聖地から余所者を遠ざけるために、「○○の畑には妖蛇が出る」と噂を立てたのが、妖蛇の畑である。
なお、七日目は「天地始之事」で人間の身体が出来上がった日であり(安息日にあたる)、天草では七日目ごとに祝い日としてタブーや決まりが設けられていたようだ。

悲しみに諳んじて岩あたたかし
潜伏キリシタンの信仰の中では、帳方と呼ばれる集落の役職者が、御帳などと呼ばれる教会暦を繰ることで行事を執り行っていた。中でも復活祭までの40日間である四旬節(悲しみ節)は、悲しみの入り(灰の水曜日)から悲しみの上がり(聖土曜日)まで重要な行事だった。オラショの口伝はこの期間に限られていたと伝えられている。

ぱらいそに空のぶつかる胡蝶かな
「ぱらいそ」(パライソ、パライゾ)はparaíso、天国、楽園の意。潜伏キリシタンにとってのパライソは、先祖の暮らす場所でもあった。

水は他界 菫と埋めるあにまなれば
「あにま」は魂、生命を意味するラテン語animaであり、潜伏キリシタン信仰では洗礼名を「アリマのお名」などと言った。葬儀でも死者の洗礼名を呼ぶのだが、洗礼・葬儀のいずれにも聖水が欠かせない。葬儀といえば、長崎県平戸市の生月島・壱部の葬儀での死者を送る言葉が印象的であった。
「あーあさましや あさましや あさましや
 花の都をふりすてて 花の都をふりすてて 花の都をふりすてて
 花の都をふりいでて 花の都をふりいでて 花の都をふりいでて
 七谷八谷 七谷八谷 七谷八谷
 たの水かかるは今ばかり たの水かかるは今ばかり たの水かかるは今ばかり
 世界の御水のかけしまい 世界の御水のかけしまい 世界の御水のかけしまいアンメゾー」

2.句作の経緯

きっかけは、豆の木の句会で「絵踏」のお題が出されたことだった。
潜伏キリシタンについては、遠藤周作の「沈黙」が私の原風景であり(なにせ中学の時分に読書感想文まで書いた)、当然映画化されたスコセッシのSILENCEも観ている。なので絵踏句を作り出したら止まらなくなってしまった。
そんな折、詩客のお話をいただき、すぐに潜伏キリシタンをテーマにすることに決めた。
決めたところまでは良かったが、考えるうちに生半可な気持ちで作ってはならないテーマだと思うようになり、きちんと勉強しようと考えた。
連作を編むにあたり自分に課したのは、大まかに以下の3点である。

①モチーフをいたずらに消費しないこと
世界遺産登録やそれに伴う観光資源化によって拍車をかけられた感はあるが、それ以前からも様々な作品の中で潜伏キリシタンは悲劇的、抒情的、あるいは幻想的に取り扱われ、ロマンティシズム過多なモチーフとなりがちであった。遠藤周作にしても、「沈黙」が普遍的なテーマを持つ優れた作品であることは言うまでもないが、そのテーマのために信仰の実態に目を瞑った部分はなかっただろうか。そもそもキリシタン信仰はまったく過去のものになったわけではなく、実在する信仰を当事者でない者が扱うには、その暴力性を低減させるための最低限の敬意は必要だろうと思う。それゆえに、実像を踏まえないロマンティックな消費は極力避けようと考えた。

②主体は潜伏キリシタン本人、それも一般信徒にすること
潜伏キリシタンの歴史は迫害の歴史でもあり、絵踏はその象徴のひとつである。ただ絵踏が季語になっている=年中行事化していたこと、現存する踏絵が非常に摩耗していることを考えると、当の潜伏キリシタンは禁教政策に従う素振りを見せつつ、集落の構成員としてしたたかに信仰を続けていた一面もあるのではないか。数々の悲劇に目を背けるわけにはいかないが、こうした実態を一次資料が乏しいながらに想像も交えて描きたいと考え、農村や漁村で暮らす一般信徒を作中主体にすることにした。禁教時代における命の軽さも、後世の宗教的視点からすれば「殉教」になるが、同時代的にはどう認識あるいは合理化されていたのか…妄想が止まないところでもある。

③信仰の陰にあるオルタナティヴ・ストーリーを見落とさないこと
現代におけるキリシタン信仰は、衰退の一途を辿っている。これは社会背景の大きな変化による部分が大きいわけだが、年中行事の女性への負担も原因のひとつに考えられる。詳細は参考文献をご参照いただきたいのだが、これは取りも直さずこれまでの宗教行事が、いかに女性の不可視化された無償労働によって成立していたかを物語るものでもある。禁教下、さらには家父長制という二重の抑圧の中での信仰があったはずであり(実際に女性への行事参加の制限などは存在した)、これについても取り残してはならないと思った。ただ連作を編むにあたって外した句もあり、十分にこの点を取り込めたとは言い難い。

3.参考文献など

以下、影響を受けた参考文献を挙げる。
・宮崎賢太郎「潜伏キリシタンは何を信じていたのか」角川書店,2018年
 潜伏キリシタン信仰を概観するのにうってつけの一書。おかげで私の潜伏キリシタン観は大きく書き換えられることになった。
・大橋幸泰「潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆」講談社学術文庫,2014年
 当時の公文書など一次資料により、禁教政策の面から「切支丹」なる存在を浮かび上がらせている。
・宮崎賢太郎「カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰」角川ソフィア
文庫,2018年
 丹念かつ縦断的なフィールドワークから、現代の信仰の姿を生々しく描いている。ジェンダーの視点への気付きは本書を読む中で得たものである。

この他にも、「天地始之事」やオラショなどは、インターネット上の情報も参考にさせていただいた。本来であれば現地取材もすべきであったが、時間や金銭の都合上不可能だったので、グーグルマップのストリートビュー機能で長崎県の諸地域を巡ることにした。
いずれにしても、これほどのテーマに対して貧弱な準備であることは否めず、いろいろ反省の残るところである。





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