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漫画 ようこそ! FACTへ の感想(第14話時点) 陰謀論は存在しません……

チ。で有名な作者の新作で、恋と陰謀渦巻く異色ラブコメディ的なフレコミの本作。読んでの感想を書いておきます。






みる立場視点に迷う

本作で沸き上がる読後感の第一位は、見出しの通りですね。

サスペンスやミステリのような視点でみようとすれば、主人公や唆してくる陰謀論者の側が正しいのか。それともヒロインが実は本当に嘘つき?陰謀側だったりするのか。どちらが正しいのかて不安を抱き、その対立構造の決着が気になります。

あるいは、社会派ドラマのようにも見えます。困っている人を助けたい、ノブレスオブリージュ的な福祉に熱心なヒロイン。彼女は良いタワマン住みで聡明で、誰にも優しい。しかし、主人公の底辺労働者とは知的背景水準が違い過ぎる。「彼氏はいるの?」「 パートナーはいないかな。」と言い換えられたり。他にもいくつもズレが酷い。特に父親の悪気のないこれぐらい知ってて当たり前でしょ前提の問答なんて泣きそうになります。しかし話せばわかるとか、弱者救済の為という信念で、ヒロインは真摯に彼に寄り添おうとする。頑張って説明するも、差が開きすぎていてその溝があやふやなまま、わかりあえないのに頑張り続けている。階層社会とか、知的格差の拡大。持つ側の福祉のつたわらなさとかの現代社会テーマが顔を覗かせる度に、モヤモヤさせられます。

あるいは、純粋な異色ラブコメで一喜一憂することもできます。その他大勢の一人なのに、少し優しくされて勘違いして舞い上がる主人公。そして、舞い上がるそのままに間違った努力で彼女の為だとか、彼女に見当違いのアドバイスをしようとしたり。滑稽な主人公を笑ったり昔の自分に重ねても面白いでしょう。






結局どういう感じになるのか

個人的にはこのどれもが魅力の作品ですが、一番前面に来るのは、2番目の格差とそこからくるどうしてもなわかりあえなさの描写かと思います。1のサスペンスミステリ要素は白黒つく内容でもないですし、着けたところで一瞬面白くなるだけでそれだけです。

3の恋愛要素は、この2のわかりあえなさすれ違いを男女のラブコメ風に見立てて、結果として出てきた産物だと思います。好き、スレ違い。このラブコメ特有の二つの要素でパッケージして読者受けをよくさせるためだけの表面上はそう見えているだけというか。

なので、根底にあるのは、

主人公側が持ち出す様々な陰謀論やデマや信憑性のない主張。

一旦それを飲み込む読者。それでうまくいったように見える主人公

誰にでも真摯に優しく聡明なヒロインからの指摘と反論で諭される。

それを完全に理解できないままに、結論結果ありきでヒロインに指摘糾弾をし続けるずれた主人公。

ヒロインの整然とした反論説明から逃げる。でもまた”思いつき”を抱いてヒロインに再戦を申し込む。の繰り返しが拡大強化されていくのではないでしょうか。

福祉の信念(誰も見捨てない真面目に向き合おうとする)がゆえに、主人公のことを絶対に見捨てないヒロイン。しかし、知的背景水準格差から、その差を理解できずにくってかかるばかりの主人公。話がずれて永遠に噛み合わないのに、互いの信念ゆえに離れられない二人。救いたいと手をさしのべる側と救われたいと手を伸ばす側。しかし、その差の知は決して埋まらない。こんな感じの現代版ロミオとジュリエットとも言うべき、社会知的格差が生み出した異色ラブコメかもしれませんね。





陰謀論は存在しない ~陰謀論構築の誤った思考法~

主人公のワタナベ君が、陰謀論者によってどんどん陰謀論側に導かれていく本作。特に13,14話でその教え導きが、一見成功した(詐欺師を打ち負かした)おかげで、ますますワタナベ君を取り巻く事態は、おかしな方向にねじれていくと思います。

なんか変だ!笑える!的なコメントはいくつかありましたが、”何が””なぜ”変なのかを説明しているコメントが少なく見えたので、書いておきます



仮説の検証不足 = 自分の信じたいものしか信じないという行動

思考には3つのパターンがある云々で語られた下りがありました。13話かな?
1、因果関係を見つける。
2、関連性が乏しいと思われたが、本当は関連している別の項目を見つける。
3、その項目も結びつける関係性法則を見出す。
(4、そこで見出した関係性を科学的(いつでもだれでも同じくなる)に検証する)

3の話まではまぁ正しく、それを信じたワタナベ君はいくつも”仮説”を提案できるようになり、何度も”保留”されました。しびれを切らしたワタナベ君はついに、その保留(仮説)の正しさを証明する方法を導師から教わります。

相手が否定したら、真実だとのことです。いや魔女狩りやないかい!!笑
(本当の魔女は、正体がばれてはいけないから、魔女と聞けば魔女じゃないと必ず言うのだ。魔女じゃないというものは魔女なのだ。反面、こんなむごい拷問をうけても魔女じゃないと言わないとは、普通の人間では耐えられるはずがないので、やはり魔女なのだ的なめちゃくちゃ論法です。)

猫がひげを触ると雨が降る。猫のひげと雨は関連しているのではないか。そういうワタナベ君が繰り出すいくつもの”仮説”は別にその行為自体は正しいのですが、欠けているのは4つめの検証です。本当にそうか?確かめよう!の視点です。つまり、なにも関係ない時に猫のひげを勝手に動かしてみたら雨が降るのかと調べてみたり。猫のひげが動くタイミングと雨の降る様子を細かく何度も記録してみたり。こういうアプローチをしないままに、”否定”(私は信じている)というなんともあやふやなものだけで、その仮説が成立することになったら、そりゃおかしな理屈だらけになります。陰謀論者の語る話が、頭の痛いものになるのも必然です。


検証していなくても、それが成立することもある。

しかし、時としてそういう論拠や根拠があいまいなモノでも、誰かを救うことがあります。猫のひげ仮説のワタナベ君が、何かから閃き、今日は大雨が来るぞーと叫び、”たまたま”本当に大雨がくることもあるわけです。

その仮説自体が正しいわけではない(論拠や根拠が正しいわけではない)のですが、そこから出てきた”行動””やること””やるべきこと”は一見正しいという結果や結論だけは、正しい場合があります。もっと極端な例で言えば、占いで右を選べと言われた。右を選ぶと、計算や演算の結果右の扉が正しいと証明して、右を選ぶのも、結果だけみれば同列なわけです。そこに至る推論や前提と関係なく、結論部は結論としてそれなりに力を持ってしまうんです。

これが災いして、前提(根拠)、推論、結論の論理構造を完全に理解したり検証しなくても、それっぽく正しそうな行為が世に溢れることになります。そうしてできあがるのが陰謀論というわけです。もっとシンプルに言えば、自分が信じたいことしか信じない、自分だけの仮説だらけの世界。でも、たまには結論結果でうまくいくけどね♪の世界なわけです。

詐欺師さんも、このラッキーパンチでやっつけられました。ラッキーパンチでしかないのに、有難がってその場を去る人たちも、相当に、自分の信じたいことしか信じない世界に生きていますね。あの場にいた人間、全員が私だけの世界に生きているのは、皮肉が効いています。




陰謀論は存在しない

少し視点を変えてお話します。いやいやそうはいっても、裏で渦巻く大きな力や組織があるんじゃないか??みたいな大がかりな陰謀論の印象を抱く人もいると思います。しかし、そういう陰謀論の概念自体が存在しないと思います。

例えば、ドラえもんの登場人物を想像してみてほしいです。で、主要メンバーで最後1個のケーキを奪い合う流れになったとします。

ジャイアンが、俺の物だ。なんか文句あっか!?と力で奪おうとする。あるいは、スネ夫が、今度○○のチケットを上げる(お金権力)から、ジャイアン僕に譲ってよという。あるいは根回ししておいて、スネ夫に渡すのに、なんか文句あっか!?と言わせる。あるいは、しずかちゃんが、一回デートしてあげるから~?と女の魅力で、自分のものにしようとする。出木杉君は、クイズの出題者になって、答えられなかったら僕の物だよと智に頼ろうとする。

何がいいたいかと言うと、結局、自分の望みをかなえて望む世界にしたいとすれば、自分の一番強い力(特技)の勝負に持ち込もうとするわけです。普通は”陰”謀でもなんでもなく、つまりは、ただの特技の殴り合いになるわけです。暴力ダメ、賄賂ダメ。性ダメ。そういうルールがあれば、一見殴り合いからは遠ざかります。

しかし、結局は形を変えて、例えばそこで多数決というルールになるなら、ばれないように力で脅して票を入れさせるとか。賄賂とはみなされないやり方で根回しするとか。ハニートラップ(未成年をかませて犯罪化させる)で相手の言うことを聞かせるとか。その力の発散方法が狡猾や陰湿になるだけで、やっぱり殴り合いなことには本質的には変わりないわけです。これ陰謀ですか?ただの頭脳戦や駆け引きです。

もし仮に陰謀論と言うならば、いきなり誰彼もが、のび太にケーキをあげるべきだ!とか言い出すようなケースでしょう。端から見ていたしずかちゃんは、みんなが変だ!陰謀だ!こんなのおかしい!と言うかもしれません。

しかし、その場合は、その本人にはみえていないだけで裏に力があっただけです。どらえもんの道具で心を操ったのかもしれないし、もっと他のところで帳尻合わせるからと唆したのかもしれません。

つまり、それができる力を持っていたけれども、しずかちゃんにはそれが見えない。その裏側にある根拠、推論、結論の論理体系が見えていないから、陰謀に見えるだけで、つまりは上と同じ話です。自分の信じたいものしか信じないから、今の自分の力で説明できないものを陰謀と処理しているだけにすぎません。自分の考えや信念では目の前のことが説明できないのなら、自分の考えや信念に誤りがあります。あるいは過不足があります。

ドラえもんの例では、ミクロの個の話でしたが、マクロでなぜかみんなが理由もなく、ある方を選びやすい、選択しやすい。流されやすい。そういうマクロな力学の陰謀を主張する人もいるかもしれません。なにかに皆が操られている!って話ですね。

それも陰謀ではなくて、それは人間の偏向や思い込みやらで、行動心理学?とか、ナッジ理論?とか。メンタリスト?マインドフルネス?やら、心理学の話です。無意識でいるとなんとなくバイアスによって、そういう行動傾向に人間はなってしまうという話です。まぁそれを利用しようとする人はいるかもしれませんが、これも、その力学の正体を見極められれば克服できる話であり、陰謀ではありません。正体を突き止めて、検証して、証明して倒せる、白黒つけられる話です。




おわりに

こうして振り返ってみると、チ。の何が面白かったかと言えば地動説への歴史的歩みが興味深かったりするのと同時に、単純な対立てはなく、その立場立場で、みている視点や信念が全然別物だった描写部分も大きかったことに改めて気がつきました。本作品も同様ですね。みんな私だけが信じる世界に生きている姿を描くことで、逆説的に知についての意義を考えさせられます。

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