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主観的価値と客観的価値の考察 ~幸福論(仮)の骨子の完成~

人間の基本原理は3つに集約される。
不安 (衣食住の確保、マイナスを避ける)
・欠乏感(なにかが足りないから突き詰めたい、プラスへ向かう)
・期待(誰かに存在や功績を認められたい)


簡潔に述べれば、マイナスからは遠ざかろうとしたい。マイナスがないときは、自分の心の中にあるたりなさを埋めたい!(もっと美味しいラーメン作り!みたいに、それまでに世の中にないプラスを産み出したい)最後は、自分の存在や功績を、社会や外に認めて欲しいとそういうことだ。

不安感は生存のためのセンサーであり生死の話だから、皆理解しやすい。欠乏感は、各人の興味関心とシンプルに言い換えられるので、多様すぎてそもそも一般化できない。ただ、最後の期待に関しては、期待をすることで、どういう見返りまたは、どういう価値を受け取りたがっているのかと言い換えることができる。つまり、期待を価値という視点でより詳細化できると思う。今までの色々な理論が繋がっていくので整理します。








理想状態と現在

本題の価値の話に入る前にすこし脱線する。社会が全く成熟していない状態の方が人間は幸福だったかもしれない。農耕牧畜によって食料不安が解消されていたならば、後は、人間は飢餓感と期待によって動かされる。昔ならば、今よりもっと切れ味のよい石をみつけなければ!とか、磨ぐと切れ味が増すぞ!という低水準で、自分なりの飢餓と期待が両方(こんな切れ味のよいナイフだって!?お前すごいな!これと交換しないかとか)が満たされていた。これは、橋を作りたいでも道路を作りたいでも水路を作りたいでもなんでいい。

生きるための食料獲得労働は付きまとうが、それ以外は、今風に言うならば好きなことをやって稼ぐ。好きなことして生きるが達成されやすいからだ。そしてそれが周りから勝算されまくる。幸福だろう。

さて、現代では社会が成熟しすぎてしまった。不安はほぼ解消されたが、飢餓感がつきまとい、俺の人生これでいいのか?もっと好きなことに時間を使いたいと苦悩している。しかし、その飢餓感を満たすには、昔よりもとても高度で複雑な能力がいる。やりたいことはあってもそれを実行に移すには、リスクと能力が膨大になってしまったといえる。そして、同様にもしそれをなんとかつくったとしても、そんな程度?と周りの上昇しすぎた期待に打ちかてない。人生行き止まりだ。その結果、多くの人は、社会を維持し、権力者や富めるもの贅沢のために週五で働かされて死んでいく。これが幸福だろうか。

とはいえ、これまでの人間の積み重ねが無駄だとか、昔に戻るべきとはいえない。何故ならば別の記事で書いたが、そういう幸福になりやすい村落型社会はいすれ周囲の村落との争いのために肥大化し、国という極肥大化にいずれ辿り着く。その過程で、領主と農奴みたいな最低の状態を長い時代経験するからだ。飢餓も期待も持つ余裕はなく、ただ不安を利用されて働かされ続けるだけの人生だ。

長い年月をかけて台頭してくる商業勢の権力闘争の結果、領主や貴族は打ち負かされて、なんちゃって自由、週五働けば自由。金を稼ぎやすい飢餓感と、それに見あった能力があれば、まだ活路はあるよ♪の現在の経済至上世界に到達する。

しかし、これから先は商業勢の暴走で、陥る未来は見えている。家畜の星だ。人を従えたいやつか、金を稼ぐことに向いている人しか幸福になれない、それ以外の人はすべてそれにつき合わされ、おこぼれをもらう家畜の星だ。そうではなくて、全ての人にとっての不安、欠乏感、期待の3要素が満たされるような世界が幸福で本来望ましいものだと思う。






主観的価値と客観的価値の説明

本題にうつる。主観的価値とは、自分が決める自分だけの尺度によるものだ。あのアイドルやアニメが好き♪とかである。客観的価値とは、他人と比較できる見える形のもののことだ。お金や物とか時間とか。

期待において、人は見返りという形で価値を求める。家事をしたら、あなたがいてくれて良かったとか、こんなに美味しい料理すごいよと誉められたり。仕事でも同様だ、対価としてお金を貰ったり。または、俺はこんなことができるんだ、だからすごいんだ!と自分を称えたりもする。これが期待だ。極々シンプルに言えば、どんなご褒美がほしいのか?あなたにとっての快楽(欲しくて欲しくて仕方のないもの、それを持つ人を妬んでしまうもの、やめたくてもついつい取り組んでしまうもの)とは何か?が、あなたの求める価値で期待で、それを満たされることがあなたの幸福なのだ。





客観的価値を内包する主観的価値

お金や車や時間を欲しいという客観的価値は、より多い方が得し、良いことのようにみえる。しかし、本質的にはそれらはあくまで手段でしかない。お金がもっとてにはいる。で、手にして何がしたいのか?車を手にして何がしたいのか?時間があれば何がしたいのか?である。結局は、主観的な領域に辿り着き、人生でなにをしたら、何ができたら幸福なのか?という自己の主観の根源的な問いかけになっていく。

客観的価値が多い方が良いは良い。客観的価値は手段なのだから、主観的価値を満たしやすくもする。しかし、客観的価値そのものは、他人と比較したときにだけ満足の効果を発揮するものであり、それは不安の領域しか満足させない。だから客観的価値だけで満足したり、客観的価値を多く集めても、飢餓感と期待を満たすことにならないし、むなしさに苛まれる。その手の人の不幸話は、漫画やアニメやらで散々出てくるしみたことがあるだろう。






主観的価値のモデル化、詳細化

主観的な価値や期待を詳細化してみようと思う。その人にしてみれば求めてやまないものであり、それを手に入れたら幸福感を得られるもののことだ。つまり、快楽である。その見返りがほしくて、手にはいれば人生がhappyでウハウハなのだ。



期待モデル

期待=快楽は3種類に分類できる。人間はその時の興味関心やテンションで、そのどれかを縦横無尽に求める。

頭の期待快楽 (競争、成長、勝利、工夫)
・知的好奇心(なんか気になる、不思議、興味関心を満たす)
・競争(相手に勝つ、勝利する)
・成長、上昇、社会的地位の上昇(自分が強くなる、できることが増える、権力影響力が増す)
・創意工夫とその獲得報酬(自分独自のやり方の発見とその成功)
・高度で複雑な答えや思考(自分独自の答えとその成功)


身体の期待快楽(五感)
・視覚 → 美しい景色や、花やら美への傾斜
・聴覚 → 音楽、リズム
・嗅覚 → 香水とか香木とか
・味覚 → グルメ、食の満足
・触覚 → 触ると気持ちいい、性欲等
(・それらを統合した身体感覚) → 運動スポーツ、体を動かす


心の期待快楽
・物語に殉ずる(各自の人生のテーマ信念思想体系の充実)
 → 同一化、カタルシス、感情移入
 → ハラハラドキドキスリルの非日常を体験(日常の安定を実感)
 → 平凡平和安定の日常系を追体験

・共感(各自の今の自分の心の機微の充実)

※心の期待快楽の補足
心には深い部分と浅い部分があり、深い部分が人生のテーマであり大事にする信念思想体系である。深い部分に触れる物語が同一化やカタルシスである。一方、浅い部分の気分の浮き沈み、見た後した後なんにも残らないアクション映画やジェットコースターみたいな一喜一憂の類が、ハラハラドキドキや、平凡安定系である。その表層の一喜一憂に寄り添ってほしいと強く求めるのが、共感である。

※物語=人生で人が信じ追求したくなる信念思想体系類型
正義と悪
救済や希望と、破滅や絶望
大志や信念や大事にしたいものという理想、現実との葛藤
人間賛美や人間賛歌や生命や愛、死や喪失
戦争や闘争や平和と、差別や復讐や憎しみ
運命や宿命や天命や使命感や業、因縁
人間の深層心理や機微や感情の揺さぶり(純文学的な人間への深堀り)
人間関係(とそこから産み出される物)
過去の歴史や人々の暮らしと、未来の歴史や空想世界の人々の暮らし
極限状況における人間心理や選択、最底辺最極端の人間
家族の絆、家族関係
各ライフステージにおける生き方、学生、社会人、老後等々
求道者(スポーツや芸能やなんでも1分野の追求する様)と落伍者
論理的や複雑性の解明、真理の追求




ゆらぎ

上記3つは、欲してやまない期待や快楽である。しかし、全て”確実に”手に入る方が良いわけではない。手に入らないかも?いや入るかも?と思い通りにならない方が、手に入った時の、成功した時の満足度が高くなるからだ。不安は大嫌いなくせに、不安定の中で、”自分の力で”とか”今だから成功した”とかの、それを手に入れるのは大変だった、だから、手に入れた喜びがあるというような、自分だからできた!!を人間は求める。言い換えるならば、人間は結果よりも、自分の過程や関わり方を重視する傾向がある。まぁ考えてみれば当たり前かもしれない。結果は客観的価値に置き換えることができるのだから、それは欠乏感や期待を完全に満たせない。本当に満たしたいのは、そこに至る過程での自分の関わり方と言う、ごくごく主観的な自己の存在の在り様を認めてほしいのである。





主観的価値を得るための、行動傾向や行動気質とその充実

結果ではなく、手段を求める。それも、”自分らしいやりかた””自分だからできたやり方”に満足を見出すとは述べた通り。その自分らしい手段やり方にも、各人の個性拘りがでる。言い換えるならば、成功するにはこの手段が最良だと思っていて、その最良の手段だから成功した!これを、人間は欲してやまないわけだ。

あまりピンと来ていない人に向けて、例を出すと、ウサギと亀の寓話がある。ウサギはゴール前で寝て、カメはもくもくと歩いたというアレである。

結果だけ見れば、カメが凄い!格好いい!みたいな話にみえるが、本質的にみれば違う。ウサギは、課題達成の8割位までは全力気味に飛ばし、残り2割位でゴールの目途がたったら、余裕をもって進めたいタイプであるというだけだ。また、求められる結果をだせばよいんだから、途中でサボり眠ることも問題ないとする手段(行動傾向)で動いた。一方で、カメは、毎日や毎時の決まった量を、確実にこなすことこそ課題達成に近づくこと、サボることは悪だと信じて、その通りの行動傾向で動いた。どちらも自分のやり方(物語)の方が真だと信じ込んでいる。絵本ではカメが勝ったが、実際問題には、時々でどちらが正解かは分かれる。その自分が正解だと思うやり方で勝負して勝つことが嬉しい!とそういうことだ。

行動傾向と行動気質の類型化
速度感、走り出しの差 (せっかち のんびり、手際)
視野 (やるべきことの組み立て計画力)
優先順位、責任感、比重(何からするか、自分と相手、何を優先するか)
効率負荷 (効率、負荷)
正確性綺麗さ (リスクヘッジ、雑、几帳面)
秩序非秩序 (道徳、規範)
コスト意識  (割りにあうか)


もう少しこの項目は、検討します。



おわりに

まとめておこう。

私たちは期待する。競争に打ち勝つような成長を望む。あるいは、五感からくる肉欲的なものに支配される。あるいは、物語(愛とか正義とか社会のためとか)を自分で作り出して、それを信じこむ。そして、それらの期待に沿った結果を求める。

期待に沿った結果という言葉の通り、結果の解釈は実はかなり主観的なものである。時には、ただ表面の結果への憤りや、不満を誰かに共感されたがろうともする。

しかし、本当に私たちが望んでいるのは、結果よりも、共感よりも、それを手に入れる過程での創意工夫であり、自分だけのたったひとつのさえたやり方での成功を認められたがっているのだ。

しかし、その道は険しい。上であげた物語(信念思想体系)の類型の通り、すべての物事は二面性を持つ。片方だけが良いものではなくて、そのグラデージョン上にいる。かなり幅がある。また、時と場合とそこにいる相手がいる以上、正解はなく、あるのは目の前の相手の行動傾向との、答え合わせでしかない。

仕事でも家庭でもなんでもそうだ。結局は、その場所や時が相手が、自分とかなり同じ行動傾向であることこそが、期待を満たす最良の方法である。幸福に近づく手っ取り早い方法である。

しかし、現実は相手のスペックとか。顔とか。仕事の能力や興味関心の指標が重視され過ぎている。これでは、期待は満たせないしわかりあえない苦しみに陥るばかりである。不安と欠乏感と期待の人間の本質をよく理解することこそが、幸福に繋がると思う。


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