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自ら 感じて

空気を通すと
気持ちがいい。

朝起きて窓を開ける。
いまの時期ちょっと寒いけど。でも開ける。家の中に空気を通す。よどんでいた何かが吹き飛ばされてスッキリする。
仕事から帰って来たときも先ず窓を開けて空気を通す。こもっていたものを流してもらう。

洗濯物を干す前に、脱水でギューっとなった洗濯物をパタパタと空気を通す。
シワがとれるというのもあるけど、ひとつひとつに空気が入って柔らかくなる。乾きやすくもなる。パタパタしてると衣類やタオルがゆるむのが分かる。

お布団にも空気を通す。
掛布団は少しの時間干しとくだけでもだいぶ違う。寝てる間に沢山吸ってくれた汗を乾かすのもあるけど、やっぱりふんわりする。
敷布団も同じ。こっちはも少し時間かかるけど、晴れた日に干せた布団に寝る時はものすごく心地いい。

自分にも空気を通す。
朝目覚めて動き出すまえ、まどろみタイムが終わって起き上がると決めたら、頭のてっぺんから足先まで、身体の真ん中にふぅーっと空気を通す。身体の真ん中が空洞になってるイメージで。
面白いもので、これやると身体がゆるむ。いつからか忘れたけど、たまたまやって強ばってた箇所が緩んだのに気がついてから、身体を開始する前にやっている。起き上がるときのシンドさが違う。あ、私は寝てる間に身体が固まるからなのだけど。お手軽なので、ずっと同じ体勢で身体固まったときなどもこれやって緩ませてから動き出してる。


空気、すごいなっていつも思う。
見えもしなくていつもそこにあるの忘れちゃうけど。見えないとこでの活躍たるや。

空気だけでなく、ホントに見えないものに沢山囲まれてたんだなーと最近つくづく感じる。何かが見えるようになったとかそんな事ではなくて、あまりにも目に見えるものばかりに気を取られ過ぎて生きてきたんだなと。

何かを買いたい、手に入れたいとか。どこかへ行きたいとか。もちろん全然悪くないしそれで良いのだけど、あまりに物そのものに目が行きすぎてて、何でそれが欲しいのか行きたいのかとか、なーんも考えないでやってきてたんだなあと。
それを得ることによって自分の気持がどうなるから買いたいのだとか行きたいのだとか、そんなことは全く考えもしてこなかったんだなあ。
いや、いちいちそんなこと考えなくても「好きだからー」でいいのだけど、例えばどこかで耳にした「身体にいいから」とか「流行ってるらしいから」とか「有名だから」とかそんなんで買ったりしてたのも結構あったよなぁと思い返したりしてみて。
そこには自分の気持ちってのは入ってなかったんだなーと。ずーっとそれで生きてきたのだから、そりゃあ「じゃあ自分の気持ちは?」って聞かれても答えられないわな。

もともと感情や気持ちに蓋をして長く生きてきたから、初めは何かに対して自分がどう感じてるかに気付くということがよく分からなくて。
そもそも感情に蓋をして生きて来たなんて思ってもなかったし。
色んな人との出会いや助けがあって今が在るのだけど、初めて「じゃあ、おまえはどう感じてるんだい?」と聞かれた時に言われた言葉の意味がよく分からなかった。自分が感じてることを言葉にしてたつもりが、どうやらそうではなかったらしい。

いつの間にか感情や気持ちに蓋をして生きて来た人にとって、その感覚を掴むまではちょっと始めは練習が必要かもしれない。
ずっと意識の目線が外側基準になっているから、先ずは自分に向けなきゃならない。
今のこの場の雰囲気がこんな感じだから私はこうだなとか、あの人はこう思ってるだろうからこっちにしておこうとか、そんな回りの物事ありきで自分はどうしようかと考えるクセから、そんなもの一切考えないで、単に自分はどうしたいか、どう感じるか、どう在りたいかに意識の目線を持っていく。
これがまたなかなか出来なかったりする。

ひとりだけの時、小さな事から始める。
何か飲みたい。なに飲もうか。コーヒーがいいかお茶がいいか。冷たいのがいいか温かいのがいいか。自分が今なに飲みたいか感じてみる。
あ、お茶がいいな。うーん、温かい緑茶だな。
この時フとあと少しでなくなる焙じ茶の葉っぱがあったのを思い出したとする。
あー、あれ飲んじゃったほうがいいかなぁ。
ここでストップ。この時点で基準がまた外側へ向かっちゃってる。今までのクセでどうしても「じゃあ焙じ茶飲んじゃおう」となりがちだけど、飲みたかったのは緑茶だから、緑茶を飲む。ゆっくり、自分好みの美味しいお茶になるよう心込めて淹れて。
外側向きがちな人のクセのオマケで、自分に対してやることに丁寧にやらないってのがある。自分の分だけだからいいやとか。
そうではなく、自分だけのために、丁寧に心込めてやってみる。自分のために何かする、というのをそもそも履き違えてるから、こういう事からやってみる。
美味しくお茶が淹れられた。嬉しい。ゆっくり飲む。あー、美味しい。自分が喜んでる感覚。これを味わってみる。
ひとりだけの時だから、誰にも迷惑かけない。
だから安心。

自分がどうしたいのかを感じる時は、意識を自分の身体へ向けてみる。出来ればハート辺り。心臓があるあたりの、からだの真ん中。頭に向けちゃうと思考が先に動き出しやすくなるから、頭からはちょっと離す。

こういうのをちょっとずつやっていって、自分に対する安心感を増やしていく。自分が喜んでいる感覚を増やして「こういうのが自分が喜んでる感じなんだ」と染み込ませていく。
そこからフィールドを少しずつ広げて、誰かと一緒の時でも自分がその時好きなものを選べるようにしていく。

もともと感情に蓋をしてたくらいだから、コツさえ掴んでしまえば、自分が好きだという感覚は次から次へと気付くようになる。そうするとどんどん楽しくなってくる。自分が好きなものを表してもいいんだという安心感も増えてくる。


自分が自分の好きなこと嬉しいことを感じてあげられなかったら、誰もそれを分かってあげられないんよね。自分が分からんもの人様が分かる訳がない。例えそれが親であろうと親友であろうと。
「あなたはこれが好きよね」と言われて今までその気になってたけど、それはその人から見た私の好きなもの(らしい)であって。本当にそれが好きなのかは自分に聞いてみなきゃ分からない。そこで直ぐに「そう、私もそれ好きなの!」と出てくればそれでOKだし。

いま、どうしたいか。どう感じてるか。
誰かに聞くのでなく、何かに頼るのでなく、単に「自分の心」に聴いてみて感じてみる。
都度つど毎回。それの繰り返し。
ゆるんでくれば、その感覚はぶわっーと広がっていく。

部屋に空気を通すのも、お洗濯ものパタパタするのも、そして自分の身体に空気を通すのも、それがいまの私には心地いい。

まわりには
心地いい がいっぱい。

自分が喜んでいるのを感じるのが
やっぱり愉しい。

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