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チャイが美味しく飲めたのは

チャイが飲みたくて チャイ飲むならサクッとした粉もの甘味も欲しいなぁーとなり じゃああそこの店で調達しようと出向き 家にあるテキトーなスパイスでチャイ淹れて 好みの味になったチャイとサクッとした粉もの甘味でご満悦


でもよく考えたら「チャイが飲みたい」となったのは 暮れに掃除で発見した蜂蜜の残りを生姜シロップにしてあってそれを使ってしまいたかったからで それがなければ「チャイが飲みたい」にはならんかったかもしれない

蜂蜜の残りを発見したのは 暮れにお花を買った時に花瓶を探していて同じ場所にあったからで その存在すらすっかり忘れていたものだった



「チャイが飲みたくて」と思った(と思って)チャイを美味しく淹れてご機嫌さんだけれど その「チャイが飲みたくて」と思うにはそれまでのご縁というか繋がりがあって その時自分は「チャイが飲みたいから飲んだ」と思っている(いた)けれど こうやって分解していくと はて 本当に私は(私が)チャイを飲みたいと思ったのか疑問になってくる

花瓶を探すには・・とこれまた遡ればどんどんご縁(繋がり)が広がって行くわけで ずーっと永遠に繋がっていくことになるし途切れることはない

その前までのご縁(繋がり)をスポッと忘れて 「私がチャイを飲みたくなったから飲んだ」と自分の中ではストーリーが出来上がっていて それはそれでいいのだけれど よーくよーく観てみると そういう流れ(ご縁/繋がり)が起きていて そこにその時々の感情や感覚や思考が紐づいて乗っかって それを「自分がそうした」と『後から』思って 自分ごと にしている



ちょっとナナメの見方をすれば
私は チャイが飲みたかった のか 生姜シロップ漬けを片付けたかった のか よくわからない

実際はどっちでもいーことで 起きた出来事は 「チャイを淹れて飲んだ」だけ
で 日常あらゆる出来事は こんな風に 流れ が起きていて
そこに後から理由(理屈)付けして こう思ったからこうした としてるんだよなぁー

そこだけ を ぶつ切りにして持ち運んじゃうし それを 記憶 として仕舞っちゃうから それが正しい自分ごとと思い込んじゃう

ものごとは ただ起きていて 流れてる



この 自分ごと に対する解体も
これから少しずつ
それぞれの自分の中で明らかになって
そこだけのぶつ切り のラインが緩まって
曖昧に感じられるようになってくると
あれ?って 他の可能性が流れ込んできたり
そうだ と信じこんでいたものが
そうでないかもしれない となってきたり

少しずつ少しずつ
緩やかに 無理のない範囲で
自然に緩んでいくんだろうな

自分ごと が少し離れて観られるようになると
「自分」という設定というか基準というか
そんなものにほんの少しだけ揺さぶりが起こるから

その時 人によっては
「今までの自分」を守ろうとする反応
が起きたり
それに纏わる過去の浮上
があったりするかもだから
イヤな人にはヤかもしれないなあ



でも
もう かつての自分 ではいられないんだよね
居ようとしても
たぶん自分の中でモゾモゾするの

もう 分かっちゃってる から

いちど壊さないと もしくは無くさないと
他に気付けない から
今までのナニカがくずれたりするのは
観方を変えれば ワルイ事ではなくなる


かつての自分を守ろうとする自分が
ワルイと思うのではなくて
そっちじゃなくて

何でかつての自分を
そんなに守ろうとしてるんだろう?
って そっちを観てみると 今なら案外
すんなり分かっちゃうんじゃないのかしらん



ただ 起きている

そこに自分なりの意味づけをして
自分のセカイを作り上げている

それってホントはすごいこと


自分が淹れたチャイが美味しかったって喜べるのは
自分ごとだと思わせてもらえてるから

美味しいチャイを飲んだわたし が いる
って思えているから


ゆるむのは 
ソコ

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