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神様をいただく

―中尾
今日は、どうしても澁澤さんと見たい映画がありましたので、無理を言って澁澤さんにお時間を頂戴して、午前中に映画を見てきました。
「くじらびと」という映画です。
私は大阪出身なんですが、旧姓を河野と言います。先祖は河野水軍と言って、瀬戸内の海賊だといわれてきたこともあって、子供の頃は山よりも海に心惹かれました。
大阪といっても南の方で、和歌山に近くて、和歌山の海に泳ぎにいきました。和歌山の南端に潮岬というところがあって、クジラが通るのが見える灯台がありました。
私が子供の頃はクジラが食卓に並ぶことが多かったです。給食もクジラだったので、甘露煮やハリハリ鍋など、今の豚肉と同じように、普通に食べていました。なので、クジラはものすごく身近に感じています。

―澁澤
私も、子供の頃、肉と言えばくじらでした。ステーキと言えばくじらでしたね。

―中尾
そうですよね。
何年か前、ちんじゅの森を主宰していた時に、当時イギリスの大学院で日本文化を研究していたイギリス人の学生さんと熊野に行ったことがあるのですが、その学生さんが、「クジラを食すことだけは絶対に許せない。」というのです。日本はこんなに食べるものが豊富にあるのに、なぜわざわざクジラを食べねばならないかといわれたのが、私も考えるきっかけになったのですが、クジラを食べなければ生きていけない村があったんですよね?

―澁澤
そうですね。今のように陸で村はつながっていませんから、津々浦々と言いますが、津々浦々で捕れる獲物は違いますから、クジラがないと生きられない村はありましたし、特に背後の耕地が少ない村は、くじらがとても重要でした。

―中尾
そうですよね。そんなこともあって、クジラに興味があったのですが、たまたま前に見た映画の予告編で「くじらびと」を見て、これは絶対見なきゃ!絶対に澁澤さんと見なきゃ!と思ったんです。
なぜかというと、これはインドネシアの島のお話なんですけど、この映画を見ると、宗教心をほとんど持たずに来た私でも、「感謝」と「祈り」というのを実感するんです。
クジラを銛一本で、しとめるんです!なぜそこまでするのか、和歌山のクジラ漁も少年が命懸けで急所を突きに行くんです。そこまでしてクジラを捕らなければいけない状況にある映画をぜひ一緒に見ていただきたいと思いました。

―澁澤
映画も素晴らしかったですし、日本だって狩りは基本的には槍で行っていました。
狩人たちは、くじらを来るのを待ち、カモシカが来るのを待ち、クマが通るのを待ち、シカが通るのを待ち…といって、暮らしていましたね。

―中尾
その村はクジラを、1年間に10頭とれればいきていけるんです。だけど、なかなか来ないのです。

―澁澤
くじらって周遊する動物じゃないですか。バリ島辺りの水道をクジラが通る季節があるのでしょうね。それを延々と待ってるんですよ。
中尾さんは待つことはできるタイプですか?

―中尾
待つのは苦手ですね。
ここ1~2年はようやく待てるようになりましたけど(笑)

―澁澤
というのはね、私は農学部で、農業から自然に入った人間なんですね。
農業というのは、人間が耕すことができるんです。自然を変えていくこと、自然を良くしていくことができる。そして、自分たちの手で豊作を得ることができるのですが、狩人の話を聞くと、狩りってひたすら動物や魚を追っかけているように思われがちなんですが、クジラにしてもカモシカにしても、人間より早い動物ですから、追っかけていったら捕れないんですよ。ですから、ただただ「待つ」のです。
季節と共に、例えばクマが穴から出てくる時期を待つ、クジラが通る時期を待つ。鹿猟なんていうのは「木化け」という言葉があって、木の前にじっと立って鹿が通るのを待つのです。鹿は目があまり良くないので、動かなければそこに人間が立っているかどうかわからない。一番動くのは目なので、ちょっとでも視線が動いたらばれてしまうので、じーっと、自分の槍が届く範囲に鹿が来るまで、待たなければいけないのです。それは先ほどのクジラと同じで、その鹿が捕れないとみんなが生きていけないのです。

―中尾
そうなんです。この映画も、何年も撮影に行くんですけど、4年目にしてようやくクジラ漁を撮影する機会を得るのです。それを待つのです。待って、待って、海に出るんですけど、あまりに来なくて村の人たちが飢えるのです。なので、今日こそ来てくださいって祈るのです。

―澁澤
神に近くなるし、木化けじゃないですけど、自然の中に一体になって、獲物を神がまさに与えてくれるのを待たなきゃいけないのです。

―中尾
それでやっとクジラが来ました。ドローンで見ると、クジラは船の何倍も大きいのです。それに挑むわけですよ、銛一本で。すごい勢いなんだけど、なんとか仕留めました。海は血だらけです。クジラは大暴れ。血だらけでもうだめだといっているクジラがトトトって泣く音まで録音されているのです。

―澁澤
その音を聞いて仲間のクジラが助けに来ましたね。

―中尾
そうなんです。助けに来るくじらも命懸けなんですよ。
それって、どっちにも「愛」じゃないですか。村人たちが飢えるのを何とかしなければと命懸けで漁に行き、クジラも、仲間が殺されるというので、自分ごとになるかもしれないのに命懸けで助けに行き、それでやっぱりつかまっちゃうんですよね。両方愛なんですよ。

―澁澤
自然の中で生きるって、特に狩りをして生きるってそういうことですよね。必死になって祈る。神に一歩でも近づこうとするのってわかりますよね。

―中尾
ものすごく良く分かりました。
それから浜にあげてみんなで解体するんですけど、細かく、この部分は仕留めた人とその家族、この部分は船を作った人…とちゃんと何らかに関わった人には全員にいきわたるようになっているので、船を作るのを指導したじいちゃんも、寡婦も、全員にいきわたるように、与えられる場所もすべて決まっているんですね。

―澁澤
人間は一人では生きられないから、しかも人間は欲があるし、思いがあるから、その部分も解決しなければいけなくて、マタギの世界ではマタギ勘定といって、くじ引きをして肉をとっていくという風習があったり、熊の胆は打った人がもらえるとか…同じですね。
尚且つ、イオマンテでは、クマの毛皮にクルミだとか鮭だとか、いろいろなものを持たせて「また来てね」といって神の国に送り返すのですよ。

―中尾
それも愛ですよね。

―澁澤
愛というのは、ペットをかわいがる愛ではなくて、自分を包んでいるすべての世界ですよ。

―中尾
クジラを食べることによって、クジラが私の中に入るんですよね。

―澁澤
そういうことです。クジラの一部になるのです。それこそアイヌでいえば神の使いであるクマを食べることで神になれると彼らは思うのです。

―中尾
そうですね、私の中でクジラが生きるんですよね。

―澁澤
生命ってそういうものです。

―中尾
感動でした。

―澁澤
人間のカラダってね、だいたい2か月くらいで細胞が全部入れ替わるのです。
2か月で何に入れ替わるかというと、自分が食べたものに入れ替わります。現に、人間の体の中には人間の細胞以外のバクテリアだとかウイルスだとか、それらが同居しているから僕たちは消化することができるし、免疫を持つこともできる。つまり、この地球上のすべての生きとし生けるものは全部つながっているというのが科学でいう真実なんだけど、人間はそれを知らなくて、なんとか生きる行為の中でそれを体感しようともがいているという感じがします。

―中尾
私はクジラでこんなに感動していますけど、言ってみれば牛も豚も同じですよね。

―澁澤
同じです。だけど、西洋人は宗教の方が科学よりも上位概念ですから、そうは思いません。
牛は神が与えてくれたものだから食べても良いけど、クジラは神が与えたものではないから、食べてはいけないと思っています。
自分が自然の一部と思っている国民と、自然は神が与えてくれたものだと今でも信じている国民はなかなか溶け合うのは難しいかもしれませんね。

―中尾
久々に涙出るほど感動しました。

―澁澤
中尾さんのDNAはここにつながっているんだなあということで、私は感動しました。(笑)

―中尾
ありがとうございました。

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