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【連載小説】9話 この子が、いたからじゃ、ないので

「彩矢ちゃーん、そろそろ出てこない?」
 どれほど時間がたったのか、裏、つまり、バックヤードの小部屋で蹲っていた彩矢に美弥子がやってきた。
「美弥子、さん……。ぃや、です……あんな、だって、あんなの恥ずかしすぎますよ……!美弥子さん教えてくださいよぉぉ……」
「うーん……、教えてあげたかったのはやまやまだけど……。でもあれは見ないと分からないでしょう?」
「そうですけど……それにしたって、あれはちょっと……」
 頭の上から振ってくる声は、責めるものでなく、とても優しい。
 それと共に、恥ずかしさやいたたまれなさから膝を抱えて蹲る彩矢の頭を、軽い小さな感触がぽんぽんと慰めてくれている。美弥子のトイの手だろうか。こういう優しい所も彼女そのままで、じわりと彩矢の瞳に涙が浮かぶ。
「ああ、ほら。彩矢ちゃんの子もいるわよ。」
 美弥子の言葉に、彩矢が顔をあげると、ひゅんと視界を過ぎった何かが、べたり!と彩矢の頬に抱きついてきた。押しつぶさないように優しく触れれば、今度はその手に抱きつく。少しだけ離れたことでやっと表情が見えたトイは、なんだか泣きそうな顔だった。
「普段そこまで騒いだりしない彩矢ちゃんが、いきなり大きな声を出して逃げてっちゃったでしょう?トイちゃん、びっくりしたみたいよ。最初はあのお客さん、優斗さんのトイが心配そうに付き添ってくれてたからまだ良かったみたいだったけど、彼も帰る時間になっちゃったし。でも扉は一人じゃ開けられないし。やっとお客さんの相手が切れたから、私がこっちに連れてきたってわけ。」
「ありがとう、ございます……」
 ふるふると震えるトイは、ごめんね、と謝ってきているようにも見えた。どうしてアナタが謝るの。悪いのは私だよ、こっちこそごめんねと小さく呟く。
「ね、ほんとにそろそろ戻ってくれる?彼はもうお帰りになったし、洗い物とか他のお客さんを放っておくわけにいかないから。わかるでしょう?」
「……はい。すいません、軽くメイク直してから行きます。」
 彼がもう居ないのであれば、まだマシだろう。他の常連さんからの視線はあるだろうが、現在進行形でトイがイチャイチャしている状況よりはうんと楽に違いない。
 立ち上がって、美弥子が頷くのを見てからパチンと頬を軽く叩く。はぁっと息を吐き、すぐにでも逃げ出したい己を叱咤した。もうすでに、逃げてしまった後ではあるけれど、これ以上は自分のポリシーに反する。雇ってもらってる以上、仕事から逃げるのはルール違反だろう。
 とりあえずは今、この後の時間をきちんとやり遂げなければ。自分の荷物が入っているロッカーを開けてメイクポーチを取り出した彩矢は、擦ってしまった顔を見苦しくない程度に整える。鏡の中の自分は、心なしか泣きそうに見えた。こんな顔じゃ、お客さんの前に立てない。ちゃんとしなきゃ。
 ただそれでも……できれば、彼と会うには、正確には彼のトイと自分のトイがじゃれている様子を、目撃してしまうには、もう少し、心の覚悟が欲しい。そう思った彩矢は、木曜の昼もなんとか回避出来ないか、店長に相談する事にしたのだった。

 結果から言えば、木曜の昼時、彼が来るだろう時間だけ、後一度だけ、裏で片付けをするのでいいと許可を得られた。
「俺も鬼じゃないからね。それに俺にも、彩矢ちゃんのトイがあんな風だったっていうのを知ってたけど教えなかったっていう非もあるし、気持ちはわからないでもないから。」
「……我儘を言って、すみません。」
 店長はしょうがないよ、と笑ってくれた。
「でも、木曜だけね。トイの行動はこれから慣れてかなきゃだし、何をし出してもポーカーフェイスを貫けないと、接客はやってけないよ。厳しいようだけど、これも仕事の内だからね。」
 店長のいう事はもっともだし、だからこそ、接客業は成人していないと就いてはいけない職業だと、彩矢はより実感したのだった。
「はい。来週までには……ちゃんと覚悟を決めて、スルーできるように頑張ります。」
「ん、了解。ねー彩矢ちゃん、もういっその事さ、あの彼と……あー、いや、ハハ、なんでもないわ。」
「……?なんです?何か言いかけて」
「いやいや、なんでもないよ。さ、片付けしちゃおう。」
 妙な間を感じたけれど、気のせいだと笑う店長にそれ以上聞くのも憚られて、彩矢は大人しく手を動かして、来週以降のランチタイムをどんな顔して過ごすべきか考えるのだった。

 土曜のバイト時間、彩矢は、やはりあっちへふらふらこっちへふらふらする自分のトイを見ては溜息を零した。
 けれど、思い直すことにしたのだ。
 自分のトイが、お客さん達のトイと仲良くお喋りをしているということは、誰とでも仲良く出来るという長所なのだと。
 実際、自分が接客業について、喫茶ひといきへ来店してくれているお客様の相手をする時間はとても楽しいと思う。そりゃあ、たまには不機嫌な人や理不尽なお客がいるのかもしれないけれど、バイトを始めてからこちら、そんなお客には会った事がない。
 そんな風に、誰とでもある程度の距離をもちつつ仲良くできるトイと自分は、この仕事に向いているのだろうと思えた。
 やってみたいと思っていた自分は間違っていなかったと嬉しくもあった。

 そして……、バイト終わり、部屋に戻って気がついてしまった。
 誰とでも、ある程度の距離をもって接するトイが、彼のトイにだけ、あんなにも近づいて嬉しそうに接していた、という事実に。
「………まって、ということは……あの人、と私、よっぽど相性がいい、って事……?……っっ、~~~っ!」
 声にならない声で唸り、トイを両手の上に座らせて見つめたけれど、目の前の子は無邪気ににっこり笑うのみ。一人暮らしで良かったと、トイを抱きしめてクッションに顔を埋めて悶え散らかしてしまった。
 だって、あの時見た自分のトイは、彼のトイと額をつけて、手と手を繋ぎ、頬を染めていたのだ。
 そりゃ、最初に見たときから、かっこいいな、なんて思ってたけど。
 さらりと揺れる長すぎない紺色の髪。自分の地味な茶色と違って、艶と深みのある素敵な色。
 それに、眼鏡をかけた目元は知的なのに、笑うと柔らかく目じりが下がってとても優しそうになる。
「うぅ……どうしよ。いや、どうするもなにも、火曜日、きっと来る、よね……耐えるしかない、んだよね……」
 ぶっちゃけていえば、恥ずかしいだけなのだ。
 自分のあずかり知らぬ所で、自分の分身とも言われているトイが、まだろくに知らない、けれど気になっている相手のトイと仲良くしている事が。
「なるべく見ない……いや、そんな訳にいかないよね。…………普通の顔、を、がんばる、しかないかぁ。」
 結局は心の持ちようなのだ。
 いかに自分のトイが好き勝手に色々飛び歩き、様々な事をしていようとも、それは自分自身がしている事じゃない。
 これこそ、友里恵が言っていた、ある程度放っておく、がベストな対応なのかもしれない。
 これが大人になる、って事なのかも。
 慣れるしか、ないのか。
 

 彩矢は手の中できゃらきゃらと笑い、遊んでいるつもりなのだろうトイをつつきながら、無理矢理結論付けたのだった。


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