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ほんとうのじぶん

いっとき、「本当の自分」「自分探し」がブームになったね。そのあと、「本当の自分なんていないよwどの自分も自分だろw」的な、ぱっと見、真っ当な意見とそれに賛同する人も増えたね。

言いたいことも言えず、人の顔色を伺って生きている、それが本当の自分だと言うなら、さすがにそれは悲しすぎるだろう。

わたしは、だめだ、と思うことがよくある。落ちこむ気持ちを、行動でおぎなおうとすることは、ただ誤魔化しているだけだ、と感じることがある。

だって、肝心の心が、さみしがっているから。

わたしは、外面(そとづら)というか、文字面(もじづら)はいいかもしれない。きれいごとを書きたいわけじゃないんだけどね。むしろ、そうしないように気をつけてはいるんだよ。

わたしは、家族に冷たい。自分のせいなのに、腫れ物あつかいをされて悲しい、と人のせいにしたり、怒ったり拗ねたりする。これが、本当の私なら、私は悪いやつだよ。

わたしと出会った人は、「意外に暗いんだ」と感じるかもしれない。“Facebookの姿は偽り”、というわけではないんだよ。面と向かうと、緊張してね、心が固まって、声も出なくなる。でも、文字のわたしは、ちょっとオーバー表現かもね。

わたしは、心を通さない、つまり上辺の会話なら、できる。だけど、心をかよわせる会話ができない。1時間もたてば、ネタ切れ、電池切れで笑顔が作れなくなってしまう。

わたしは、ごくごくたまに、心をひらくことがある。この人落ちつくなぁ、楽だなぁ、と思うこともある。(女性のみ)だけど、わたしといても楽しくないよなぁと、あるタイミングをもって距離を作ってしまう。

わたしにとって、友だちと呼べる人は、年々減っている。それもそうだろうと思う。

わたしは、男の人が苦手。だけど、彼のことは好き。自分なりの愛情表現がわかってから、会話が続かなくても大丈夫と思えた。

わたしには、人と緊張せずにしゃべったり、くだらないことで笑ったり、人のためを想って目を見て話を聞いたり、そんな経験が必要なのだと思う。バイトの子たちを見ていると、なんていい姿だろうと思う。

わたしは、最近、がんばっている人に、うまく声をかけられない。嫉妬する気持ちすら湧かない。ただ、がんばっていないわたしがはずかしくて、わたしのことを忘れてほしいとすら思ってしまうのだ。

わたしは、一人でいることが好きだ。楽だ。だけど、このままでは、だめになってしまうと思うんだ。一人でいることすら、怖くなってしまうと思うんだ。

だめになることを、恐れる必要はない。だめになってもいい。だめになってからでも、ぜんぜんだいじょうぶ。そう思ってもいい。今はそう思えばいい。正解はない。間違いもない。恐れを無くすためだけに、焦りで動く必要なんてない。

ふと、思うんだ。どうして、人を喜ばせようとしないんだろう。どうして、人を恐れるんだろう。どうして、自分から歩み寄らないんだろう。

どうして、なんて必要ない。弱りきった頭は、今は使えない。使わない。

考えない。答えを探さない。
たまには、だらだら文章にしたらいい。
吐き出せばいい。吐き切ればいい。

少しずつ、少しずつ。
自分に、家族に、あなたに、優しくするからね。

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