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サウナと孤独

サウナブームが冷めつつあるというニュースを聞いたり、サウナが健康に悪いという研究結果を聞いたりするようになった。

私にとってサウナとは、健康のためだけでなく、様々な総合評価の結果として人生を好転させるものである。そんなサウナの魅力の一側面として、「サウナと孤独」について考えたい。

孤独と聞くとネガティブなイメージを持つかもしれない。しかし「孤独のグルメ」の大ヒットが暗示するように、「孤独」という言葉は今や寂しさの象徴ではなく、自由の象徴となっている。

SNSの発展による”つながりすぎた”現代社会においては、あえて人間関係から一定の距離をとることが必要だ。人間関係という鎖に縛られた生活は不自由だ。だから時に人は、デジタルデトックスのような方法を使って、一時的に人間関係をシャットアウトする。その点において、サウナに電子機器を持ち込むことはできないため、サウナはデジタルデトックスに一役買っている。

サウナにはブームも相まってたくさんの人がいる。一見すると人間関係のシャットアウトにはほど遠い。しかし、サウナでは基本的に他人と話すことはまったくない。黙浴をルール化しているサウナすらある。サウナはコミュニティではない。したがってそこにコミュニケーションは生まれない。そこにあるのは単に、ルールを守る限りそこにいてもよいというパーミッションだけだ。

つながりすぎた社会では、主体的に生きることは難しい。友人からLINEが来てつい反応してしまったり、インフルエンサーのインスタライブをリアルタイムで見たり、誰か他人のタイムスケジュールに合わせて生活しがちだ。
あるいは日々の生活で私たちを邪魔するのは他人だけではない。ふとやらなければならないタスクを思いついてしまったり、心配事や不安が頭から離れず集中力が落ちたり、そういったことにも悩まされる。

サウナにおいては、完全に主体的な時間を過ごすことができる。自分の身体感覚によってのみ時間が進む。サウナに入って好きな位置に座る。身体が次第に熱くなり、もう出たいと思ったらいつでも出ることができる。水風呂も同じだ。身体の感じるままに、出るのも入るのも自由だ。

佐賀県にあるらかんの湯というサウナに行ったことがある。このサウナは露天の休憩スペースがあり、サウナ・水風呂を終えると休憩スペースでととのうことができる。この休憩スペースの自然は素晴らしく、目の前に圧巻の山々が見渡せ、荘厳な木々が露天スペースギリギリまで迫り、鳥や虫の音が微かに聞こえる。

しかし、木も、鳥や虫も、決して私たちを邪魔しない。そこで彼らは生きているが、私たちとは別の軸で生きていて、互いが干渉せずに互いの時間を過ごしている。

私たちは勝手に自然や動物を美しいと思い、それらは決してファンサービスなどはしてくれないが、反対に邪魔をすることもない。これぞ孤独の美学である。

外部からの邪魔がないのと同時に、心配事や不安といった内部からの邪魔も生じないのがサウナの良いところだ。

なにせサウナはとても熱い。一度サウナに入ると、これ以上いられなくなるまで座ってじっと待つ。その間、悩みなど生じている暇がない。熱くて考え事ができない。水風呂も同じで、ただじっとしているのが精一杯だ。

「サウナがすべてを救ってくれる」とは言わない。大事なのはエッセンスだ。日常の一コマに、主体性を取り戻すための「孤独」を加える。それが、現代で生きる上での非常に重要な時間の使い方だと思う。

その処方箋の一つに、サウナはなることができるのではないだろうか。


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