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君たちはどう生きるか?と言われても

もしも私がこの映画を大学生の頃に見ていたら、子どもと大人の狭間で「どう生きるか」という問いについて何日も考えを巡らせていただろう。

もしも私がこの映画を高校生の頃に見ていたら、至極純粋な気持ちでアニメーションという表現の美しさと自由さに感動していただろう。

30歳の私はこの映画を見て、「わからない」以上の感想を持つことができなかった。もちろんジブリ作品特有の作画は綺麗だった。しかし多くの人が指摘するように、もはや考察させることが目的かのごとく、場面展開も心情描写も飛び飛びで理解できない部分が多かった。

そしてなにより、映画が始まり映像が視界に入った瞬間に目を見張るほど感動したり、映画が終わった後しばらくそこから動けなくなるほど感情が揺れたりすることが全く無かった。

肝心の本作のタイトルでもありメインテーマでもある「君たちはどう生きるか」に関しても、そう問われたところで「いや、私は私なりに私の人生を生きていくだけです」と答えるしかない。この映画を見て、この問いを投げかけられて、「では明日から全く新しい一歩を踏み出そう」などとは思わない。現実を変えることも、現実から逃避することも、この映画には不可能だった。

高校生や大学生の頃の私は、そうではなかったはずだ。私は、歳をとったのだ。歳をとり大人になって、ジブリを見ても何も感じなくなった。そこで私は、「どう生きるか」よりも「どうしてこうなったのか」の方が気になった。大人になるとはどういうことなのか?私は何が変わってしまったのか?私はそれをじっくりと考えた。

高校生にとって、学校とは人生である。学校こそがすべてである。勉強も部活も友人も恋人も、すべて学校の中に存在する。ものすごく狭いその世界の中で高校生が考えることは、目の前の一日を楽しむことである。

もちろん受験勉強や部活の大会においては、先々を考えなければならないこともある。けれどそれは大人の管理下で考えた気になっているだけで、当の本人たちは宿題が面倒だとか顧問が休みでラッキーだったとか、そういった目先のことばかり考えている。

そんな世界は少し窮屈だ。人によっては閉塞感を感じるだろう。学校という塀の中でのみ生活を許された高校生は、時折不自由さを感じる。「終わりなき日常」という言葉があるが、ハルヒやひぐらし、シュタゲのようなループもののアニメから必死に抜け出そうとする主人公に共感したくなる気持ちは、この不自由さから生まれるのだと思う。

そんな彼らが、あるいは高校生の頃の私がこの映画を見たら、ジブリアニメーションの表現の自由さに感動し、ファンタジーというここではないどこかに没入し、明日からの世界(=学校)の見え方が大きく変わったに違いない。

あるいは大学生というのは、何かにつけて悩む。学校という狭い世界を超えて、様々な人間関係を築くからだ。アルバイト然り、インターン然り、なぜか一緒に飲むことになった友達の友達然り。大学生はあらゆる可能性に満ちていて、何でもできて何にでもなれる全能感を持つ。誰か新しい人に出会う度、その誰かは何かを成し遂げていて、そんな誰かに自分もなれる気がしてくる。しかし同時に、何にでもなれる気がするのに、何者にもなれていない自分に対して無力感を覚える。結局一般的な普通の大学生である自分は、何も生み出せないことを悟る。

あの花を見てじんたんとゆきあつのどちらになりたいかを悩み、化物語のヒロインたちが名言を吐く度にそれを自分の人生に当てはめる。そんな彼らが、あるいは大学生の頃の私がこの映画を見たら、「どう生きるか」という問いが心に刺さり、刺さり過ぎて一度再起不能になり、大学生特有のあり余った時間を使って少しずつ回復し、その後しばらくその至上命題について考えを巡らせる。

その思考の果てに、アルバイトを辞めてインターンを始めるかもしれないし、趣味でブログを始めるかもしれないし、人生初のナンパに挑戦するかもしれない。どの選択肢を取るにしてもこの映画を見たことで、明日からの人生において(少なくともその大学生にとっては)大きな一歩を踏み出したに違いない。

学生と比べて、大人になると人生が激変するような体験はそう起こらない。代わりに穏やかに、等身大で地に足のついた形で、社会と適切な距離感を保ちながら日々を送る。理想と現実のバランスを調整しながら日々チューニングしていくパラメータの一つ一つが、自分自身を形作る個性となる。自分が変わってしまうことよりも、自分を作っていくことに価値を感じるようになる。

それはアニメというファンタジーの力を借りずとも、自分自身で自分の人生の舵を切ることができ、自らの幸せを自らの手で掴めるようになったということでもある。つまり大人になるということは、自分で自分を幸せにできるということなのだと思う。

宮崎駿監督は以前、子どもがトトロを一度見たら、トトロを好きになってその後何度もトトロを見てくれるより、外に出てドングリを拾いにいってほしいという趣旨のことを述べていた。それはつまり、アニメをきっかけにして、アニメを補助線にして、現実の楽しさを知ってほしいということだ。

ファンタジーをきっかけに現実での行動を変えるという意味では、本作にもそれが描かれていた。主人公の真人は自身に起きた不幸を乗り越えるために下の世界でたくさんの人の力を借りる。アオサギの誘惑をきっかけに、キリコ、ヒミ、夏子の力を借りて、現実に戻る。現実での彼は、前向きに生きることができるようになっていた。彼が幸せになるためには、他人の力、ファンタジー(下の世界)の力が必要だった。

その彼に私が全く共感できないことから気がついた。私にはもう、アニメの力は必要ないのだ。

ここまでを総括するなら、私は「どう生きたか」だ。結論を言えば、大人になった。その過程はここまで述べてきた通りだ。では、私はこれから「どう生きるか」。それに関しても、ここまで考えてきて少し見えてきたことがある。

大人になったことで、「いや、私は私なりに私の人生を生きていくだけです」としか答えられなくなった。しかし私は、大人にはもう一つ上の段階、言わば大人2.0のような段階があるのではないかと思い始めた。

大人2.0とは、自分ではなく他人を幸せにしてあげられることをここでは意味している。それは席を譲ったりペンを貸したりといった単発の親切さや優しさによってなるものではなく、それ自体が生き甲斐であり人生そのものになっている段階だ。例えば私たちは学校教育を終えるとまず、社会人という形で他人を幸せにするための仕事の一端を担う。仕事は大人2.0になる第一歩というわけだ。

人によってはその先に結婚があり子育てがあり、他人が自分の人生に密接に関わる機会が増え、他人も含めた私たちの幸せが、私の幸せになっていく。

宮崎駿監督が「私はこう生きた」と自伝的に本作を描いたのは、単なる自己開示だけでなく、「こう生きてほしい」というメッセージだったのかもしれない。彼は「どう生きるか」を世間に問いたかったのではなく、「他人を幸せにできるよう生きてほしい」と願いたかったのかもしれない。私は彼の(私の解釈による)彼の願いを継いで、私にとっての「どう生きるか」の暫定的な一つの解を、他人を幸せにすることとしたい。

「どう生きたか」と「どう生きるか」について考えて、過去と未来を語ることができた。私にアニメはもう必要なく、現実できちんと他人を幸せにするという暫定的な結論を得た。しかし私には、一つだけ引っかかることがある。それは、だとしてもどうしても見たいアニメが存在するという問題だ。

私は秒速5センチメートルやエヴァンゲリオン、化物語といったアニメが好きだ。主人公が拗らせていて、大人になれず特定の考え方に固執したり、物事を斜に構えていたりする姿を見るのが好きだ。つまりそれは、子どもが子どものままの物語だ。

私は幸運なことに真っ当に大人に向けて人生を進めていて、真っ当に大人2.0になりたいと望んでいる。しかしもしも一つでもボタンの掛け違いが起こっていたら、私は大人になることなく精神的に子どものままでいた可能性だってある。「会社員として働くなんて」とネットワークビジネスに手を出したり、「結婚なんて」と皮肉を込めて恋愛を批判したり、そうなっていた未来もあり得る。

私が真っ当に大人になれたことは幸せなことであるが、同時に、起こり得たかもしれない子どもとしての私を、私は映画の主人公に投影したいのだろう。

起こり得たかもしれない未来、私はそんな子どものままの拗らせた自分も好きだ。それは起こらなかったが、いつでも自分のそばにいる。「服は選ぶまでが一番楽しい」と言われるが、こと自分に関しては、選ばなかった方の人生の自分も、いつまでも好きで居続けられるし、そんな自分を想像するのは楽しい。

「どう生きたか」と「どう生きるか」に加えて、「どう生きたかもしれないか」について語り、すべてのパーツが揃った。過去と未来という直線上の思考だけでなく、起こりえたかもしれない並行未来についても語れるその想像性が、アニメの最たる魅力だ。宮崎駿監督の映画を一本見てここまでの想像性を引き出してくれたことは、この映画の偉大性を改めて感じる最大の理由になった。

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