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“実況実力世界一”のチャンピオンベルトを受け継ぎたい

プロレス実況の仕事をするうえで研究用のノートをつけている。これは、先人たちの実況を聞いては書き写したもので、当時の中継が録画されたVHSテープを再生し、いつどこで、どんな試合が中継され、アナウンサーがどんな言葉を使ったかをノート3冊分に書き留めているのである。古舘さんから受けた影響を何度も書いているが、プロレス実況の歴史において古舘伊知郎の何が凄かったのかを改めて述べたい。

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研究用ノートを公開


古舘さんのデビューは、テレビ朝日入社からわずか4か月後の1977年8月であった。『ワールドプロレスリング』の先輩アナウンサーたちがモスクワ五輪の中継にごっそりと駆り出された影響もあるが、入社2年目から同期を差し置いてメイン実況に定着するあたりに才能が感じられる。アントニオ猪木史で言えば、“シュツットガルトの惨劇”ローラン・ボック戦以降、ウィリー・ウイリアムスとの異種格闘技戦やスタン・ハンセンとの一連のNWF戦などは、すべて古舘さんによる実況だ。当時の映像を見ると、まるで闘魂三銃士の中で真っ先にメインイベンターに抜擢された武藤敬司のように、そもそも、アナウンサーとしてのスキルが若手の頃からズバ抜けていたことがわかる。

古舘さんが登場するまでのテレビ朝日のプロレス実況と言えば、やはり、舟橋慶一さんだ。「古代パンクラチオンの時代より、人々は強い者への憧憬を深めてまいりました」というフレーズに代表されるような格調高い語り口。その一方で、試合のクライマックスで突然、声のトーンを上げて絶叫するスタイルは、70年代に猪木の名勝負を数多く彩った。何しろ、“燃える闘魂”というキャッチフレーズを作った名物アナである。当然、直接の後輩である古舘さんも影響を受けており、「俺は舟橋さんの良いところは全部いただいた」と証言しているくらいだ。また、文化放送の戸谷真人さんもお手本だった。彼らと聞き比べれば判るように、古舘さんの口調そのものは、「であります」調で作る、クラシカルな“昭和のアナウンス・スタイル”なのである。


では、80年代の新日本プロレスブームの一翼を担ったとも言われる“古舘節”のいったい何が新しかったのか?その特徴を以下に挙げてみよう。

まずは、何と言っても独特の形容詞である。「“一人民族大移動”アンドレ・ザ・ジャイアント」「“筋肉の終着駅”デービーボーイ・スミス」「“闘う金太郎飴集団”ストロングマシン」「“虎ハンター”小林邦昭」「“青春のエスペランサ”高田伸彦(現・延彦)」など、古舘さんが付けるネーミングは、従来のアナウンサーとは違っていた。単なる比喩ではない。目で見たものと、そこから連想した全く関係ないものをドッキングさせるこれらの形容詞の起源は、駆け出し時代に遡る。リングに上がった猪木の上半身がライトに照らされる様子を見て「幼い頃に下町の台所、磨りガラス越しに見たママレモンだ!」と生中継で口走ったことがきっかけだったと言われている。

「競合スポンサーがあるのに、猪木の体がママレモンとは何事だ!」と、翌日は上司から大目玉を食らったというオチがつくわけだが、まさにひょうたんから駒。開眼した古舘さんは以降、実況の中で独自の形容詞を連発していく。折しも、コピーライターという職業が注目され始めた時代であり、どんな比喩にも見劣りしない個性豊かなプロレスラーが揃っていた時代である(古舘さんは自らを「言葉の錬金術師」と呼んだ)。

さらに、リング上の闘い模様を拡大解釈し、歴史とオーバーラップさせた点も斬新であった。例えば、アントニオ猪木とハルク・ホーガンが闘えば「ヘラクレスの息子アントニオが、大海原を席巻した現代のネプチューンと相まみえる!」とギリシア神話に変換したし、鹿児島からの中継となれば、長州力を維新の志士、西郷隆盛」に例え、得意技のリキラリアートを「関門海峡で火を噴いた維新のシンボル長州砲!」と表現した。そこに整合性は取れていなくても構わない。実況の中で時間軸を自在に行き来して、歴史絵巻のごとくプロレスを語ったのであった。

また、古舘さんは可能な限りの四字熟語を実況に盛り込んでいる。例えば「1対3の状況は“孤立無援”の“四面楚歌”。まさに“絶体絶命”の猪木!しかしながら、リング上は“一騎当千”の強者たちがひしめく“弱肉強食”のサバイバル、言ってみれば“戦国時代”の様相であります!」といった具合である。1時間弱の中継をこれほど四字熟語で “飽和状態”にしたアナウンサーは、まさに“前代未聞”であった。

古舘さんが生まれ育った東京都北区滝野川は、戦争の空襲で焼け残った古い民家が多い。道路が狭い人口密集地域のため、人と人との会話が活発で、お喋りな人が多い環境だったという。滝野川仕込みの圧倒的な言葉数とスピード感、さらには「おーっと!」に代表されるような絶叫も加わって“古舘節”は完成したのである。


そして、忘れてはならないのは、プロレスに対する人並み外れた知識と愛情だ。小学生の頃からプロレスを追いかけ、中学生の時点で東京スポーツを毎日購読していたほどの筋金入りである。のちにプロレス中継から引退後、ゲストとして放送席に座った際にビッグバン・ベイダーとクラッシャー・バンバン・ビガロの対決を見て「ヘイスタック・カルホーンとハッピー・ハンフリーの試合を思い出しますね」とサラリと言ってのけるのだから、プロレスファンから一目置かれて当然なのである。

さて、プロレスで新しい実況スタイルを確立した古舘さんが独立後、さまざまなスポーツ実況に挑んでいったことはご存知の方も多いだろう。F1グランプリをはじめ、マラソン、水泳、競輪、そして、TBSのバラエティ番組『スポーツマンNo.1決定戦』や『筋肉番付』『SASUKE』の実況は、のちに『イノキボンバイエ』や『ダイナマイト!』などの格闘技イベントにも繋がっていくのであった。

実況の世界から古舘さんが姿を消してからのこの15年以上経つが、スポーツ中継においては未だに“古舘節”を超える発明は現れていない。むしろ、選手のキャラクター付けや試合のドラマに関してはVTRが担うようになり、実況に関しては特異な表現はさほど求められなくなっているのが現状だ。どのチャンネルに合わせても、局の色で統一された社員アナウンサーで占められている。

1987年3月26日、古舘さんがプロレスの実況から卒業した日、猪木から古舘さんに一本のチャンピオンベルトが贈られた。これは猪木が師匠であるカール・ゴッチから勝ち取ったもので、20世紀初頭に活躍した伝説のレスラー、フランク・ゴッチから伝わる由緒ある「実力世界一」のベルトである。古舘さんのその後の活躍を予見して、猪木はベルトを渡したのだろうか。今も古舘さんが保持したまま、防衛戦が行われていない「実況実力世界一」のベルトは、僕が受け継がねばならないと思っている。

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猪木から実力世界一のベルトが贈られたシーン



参考文献
『おぉーっと!掟破りの言いたい呆題』(1984年/テレビ朝日出版)

※『昭和40年代男のプロレスカルチャー大全』(2015年/宝島社)に掲載されたコラムを加筆・修正したものです

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