見出し画像

アウトサイドに祝福を

阪神タイガースが日本一になった。

セ・リーグ制覇を果たした時にもそうだったが、さまざまな人から私の元へ「日本一おめでとう!」と、お祝いコメントが届いた。

病める(3年跨ぎで現地観戦13連敗という記録を打ち立てた)時も健やかなる時も、共に足繁く甲子園に通った友人だけでなく、前の職場の先輩や同期、大学卒業以来ほぼ連絡をとっていなかった旧友まで、とにかくさまざまな人から。

じっくりと集中して岡田監督のインタビューを聞いている間にLINEの通知バッジが見たことないほど溜まっていて驚愕したのだった。

それはもう、自分の誕生日はおろか、いかなるライフステージの変化があったとしても、こんなに「おめでとう」という言葉をかけられることは後にも先にもないだろうと思う勢いであった。

一応断っておくと、私は球団関係者でも選手の家族でもなく、ただ20年以上(いつから、という記憶はもはや定かではない)比較的静かに生暖かく阪神を応援しているだけのファンだ。
当然、自分が何かを成し遂げたわけでもなければ、日本一だと誇れることなどとんと見当たらない。

にも関わらず、多くの人から「日本一おめでとう!」という言葉をかけてもらえるのだ。
なんだかとてもお得な気分。
そしてこれは、なんとも奇妙なことではないか。


それについて思い出すことがある。
以前、津村記久子さんがJ2のサッカーチームを応援する人々を描いた小説『ディス・イズ・ザ・デイ』に関するインタビューで、こんなことを語られていた。

津村:サッカーに限らず、他者のことを考えられるのって、素敵なことだなって思いますね。サッカーを観に行くと、楽しいことばかりじゃなくて、負けて悔しいこともたくさんあるじゃないですか。それでも、好きな選手のことを真剣に考えたり、チームの勝ち負けに自己投影したりすることって、自分のことばかり考える人生よりも絶対に素晴らしいと思うんですよ。

 それとプロスポーツの世界って、必ず勝ち負けがあるシビアな世界ですよね。応援している自分たちには、どうにもできない部分がたくさんある。それでも、勝ち負けというよくわからない世界に、自分を重ねてみる人って潔くていいなっていいなと私は思うんです。

https://www4.targma.jp/tetsumaga/2018/09/07/post10360/3/

また、別の記事ではこんなこともおっしゃっていた。

 自分の外に何か誇るものがあるのはいいと思います。いろんな土地で取材したんですけど、すごくおもしろかった。ただその場所に生まれついたとか、仕事で来たとか、縁があって応援しに行って、負けようと勝とうと自分に利害がないのに、みんな本気で喜んで本気で悲しむんです。

 横断幕で「プライド・オブ・○○」(○○は土地の名前)というのがよくあります。それって、土地のことであって、自分がえらいとは言ってないじゃないですか。サッカーでも、土地でも、風景でも、名物でもなんでもいいんですけど、自分の外に無尽蔵にあるものを誇る。自分自身が持っている有限な経済力とか、インテリジェンスとか容姿とかに誇りを求めるのは無謀です。

 見えっ張りは、そうやって外に求められるプライドを全部自分でまかなおうと思う状態じゃないですか。自分って、それほどのものかって思うんですよ。お菓子食べながら音読もできないのに。

讀賣新聞オンライン2018/08/24

※上記2本のインタビュー記事は、読むだけで勇気づけられる内容なのでぜひ全文読んでほしい。

自分の外側に誇れるものがある。

今年こそタイガースに対する感情を胸を張って「誇り」と形容できているが、長く続いたしんどい時期においてはそれをそうと自覚するのは難しかった。
だけど、どんな時期においても、内側にもてるものが少ない自分にとって、心の支えであり喜怒哀楽の源であることは間違いがない。


自分のファンとしてのスタンスは「生ぬるく」が基本だ。
生まれて初めての日本一という事態に、その基本姿勢が少々崩れ、いささか熱くなってしまい、日本シリーズ期間は正直生きている心地がしなかった。

危なかった。対象への過剰な自己投影は不幸の始まりだ。

冬の入り口に立ったばかりではあるが、また次の球春を楽しみに、野球のない日々を淡々と生き抜き、また来季からも生ぬるく140試合を闘いたいとおもう。

この記事が参加している募集

スポーツ観戦記

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?