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感覚をひらく

休職、といいながら、週1回半日のバイトは続けている。
あと、仕事がらみのもろもろの予定(Web視聴など)があったので、仕事を忘れて休むということはできていなかった。昨日からようやく休みモードへ。

更年期だと気づいたと同時に悪くなったメンタルの不調は、(診断をうけていないものの)うつ病というよりは適応障害に近いと思っている。
仕事の内容を調整しただけで少し軽くなったこと。自分の中で見て見ぬふりをしていた、そして誰にも話すことができずに何年も抱えていた”本当はこの仕事をやりたいわけではなかった”という気持ち、それをやっとカウンセラーさんに話したときに、つかえているものが抜けてやっと呼吸ができる、そんな体感覚があった。

また、仕事以外にみつけた”やりたいこと”。それが、それまでの働き方では体験参加すらできそうにない、と気づいたとき、そんなの嫌だ!という気持ちがわーっと押し寄せて涙が出てしまった。人生の後半、そういうやりたいことを我慢しつつ仕事で成功すること、そこに何の希望も持てなくなっていた。

私にとっては趣味を超えた大切な時間だとしても、誰かから見たら”趣味に生きる人”なんだろう。
そして、その”誰か”は、今までの私を支えてくれた人たちでもあるのだけれど。

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その”やりたいこと”の一つが、山や森を歩くこと。

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調子が悪かったり、血圧が低いときは、山に行くための準備すらできない。なので、ツアーに申し込むのは勇気がいるし、実際にもドタキャンすることが何回もあった。
よって基本的にソロで計画することになり、体力的・時間的に身の丈にあった場所へ行くことになる。

この日も、高尾山へ。
暑いので、沢沿いの6号路を早朝から登った。

きつい登りではないので、朝露でしっとりとした草の緑を楽しむ余裕があり、沢の音、複数の鳥の鳴き声が耳に心地よく届く。
歩いている自分の身体の状態、姿勢に意識が向く。ちょっと腰がひけているかな。これが後半の膝痛の原因かも?骨盤を立ててみよう、とか。

ふと。
マインドフル、ってこういう状態かな。と思った。

普段山歩きをしながらも仕事のことが気になることもよくある。
また、下りが苦手なので、急な下りだとどこに足を置くかということに集中せざるをえない。私は視力が弱いので足場を見ることで精一杯となり、景色を楽しんだり、鳥の声を聞きながらということは下りではなかなか難しい。それはそれで、雑念を忘れて自分の野生が復活するような感覚も時にある。
一方で、膝の痛みが出たときには一気に現実に戻り"またか、、何が悪かったのだろう”と脳内反省会が始まってしまうことも。
そんな考え事をしてしまった瞬間に転倒したこともあった。

一方で、山とは別の場面だが、ゾーンに近い状態を経験したときを思い出した。自分の感覚が開いて、目の前の作業に細心の注意を向けて行っていても、聞こえるもの、周囲の誰かの動きなども意識の中に入っていてその変化にも気づける。あらゆるものと自分がコネクトしているのに、落ち着いている、そんな感じ。
私にとってマインドフルであるということは、一点集中ではなく、感覚がひらいて全体を捉え、その一部に自分がいる、という状態、と思っている。

山や森を歩いているときは、マインドフルな状態に入りやすく、それによって自分が解放されるように思う。

話は戻るが、高尾の6号路で感じたことは、
もし自分の内側の思考に入り込みすぎたり、視野の一点に集中しすぎなときは、聞こえるものにも意識を向けてみたらいいのではないか?ということ。

マインドフル瞑想は呼吸に注意を向ける、というのが一般的である。また、心理療法でも、思考に囚われそうになったときに呼吸に意識を向けるという方法もあり何度も試みているが、なかなか体得できていない。
これはあくまで私の場合であるが、確かに、もともと耳はいいのではないかな?と以前から感じていた(忘れていた)ので、呼吸と共に、聞こえるものにも意識を広げてみるのもいいのかもしれない。
聴覚を入り口に、全体の感覚が開いたり、調整できるような気がする。

これも仮説なので、検証してみようと思う。

可愛らしい紫陽花もそろそろ終わり