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自宅飲み - たてにゃん

「楯の川酒造、何がしたいんや・・・」と最初は眉をひそめたものの、「あ、今日は猫の日だ」と思い当たってしまったがゆえに買わざるを得なかった。うん、猫の日ならばしょうがないだろう。

というわけでこのお酒の話はこれでおしまい。美味しかったよ。

僕は割と簡単に他人を全否定する。いや、正確に言うと僕自身は全部を否定しているつもりはないのだけれど、「こいつと関わると僕の人生が汚れるな」と感じたら徹底的に距離を置くので、相手は「全否定された」と感じるのかもしれない。同じ会社の同じ部署の人間でさえ、もっといえば直属の上司でさえこの例外ではない。よくこんなんでサラリーマンのしかも中間管理職が務まっているなと我ながら不思議に思う。

僕のそういう部分を「強さ」と形容する人もいるけれど、自分ではむしろ「弱さ」の現れだと思っていて、少しは改めなきゃいかんだろもういいオッさんなのだから、と後ろめたく思うこともある。

他人を退けるのに「力」はいらない。少なくとも僕にとっては「力」は必要ではない。むしろ他人を受容することのほうが「力」を要すると感じている。ならば本来「強さ」とは「退ける」ことではなく「受容すること」にこそ宿るのではないだろうか、などと愚考する。

人間関係の悩みを吐露する記事は沢山あるけれど、そういう記事を読むと「退けることなく、受容するために己の力をもって戦っている」ように見えて、大変そうだなと思う反面うらやましさも感じる。

ある意味で僕は平和主義者でなおかつ精神的に潔癖であるから、そういう生き方ができないのだろうと思う。その生き方を「変えられないもの」とするか「変えるべきもの」とするか、それは結局僕自身が決めることだ。

ときおり直面する「それは変えるべきだろ」という場面で、僕はいつも立ち尽くしてしまう。それが一番よくないことだと分かっているのだけど、どうしていいのかわからなくなって、結局は相手を受容できないまま、状況は何も変わらないまま、ということがほとんどだ。

「来月いっぱいでこの会社を辞めることにしました」

と昨日、全然関係ない部署の女の子が僕のところに報告にやってきた。彼女はこの職場で何度も不当に辛い目にあっていて、そのことを伝え聞いていた僕は何かと声をかけるようにしていた。一度だけ二人で飲みに行ったこともある。だから、本来はまったく必要のないことだけど、なるべく早く退職のことを伝えてくれたのだと思う。ありがたいことだ。彼女がこの職場に居続けるために、僕の存在は多少なりとも役に立っていたのかもしれない。

けれど逆に言えば引き止めるほどの力はなかったということだ。当たり前のことだ。僕がそのために何かをしたわけではないし、彼女が退職する理由も具体的なことはまだ何も聞いていない。寿退職かもしれないし、純粋に違う業界に移りたいだけなのかもしれない。

でももし、本当はこの職場に残りたいと思っていたとしたら、僕にはそのために何かできることがあったんじゃないだろうか。そしてそれは、「退けるばかり」の自分を変えることで実現できたんじゃないだろうか。などと思ってしまう。

こうやって僕はこれからも若い人の退職をただ見送っていくだけなのだろうか。

そろそろ何かを変えないといけないのかもしれない。ぼんやりとそんなことを思う。

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