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THE ACT OF KILLING

週末に見た映画の感想。

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満を持して見た、という感じだ。
半年前から見たいと思っていたものの、ハードな内容なので気持ちの踏ん切りがつかずにいた。
年内にはAmazonプライムを解約しようと思っているので、先週末にいよいよ鑑賞することにした。

THE ACT OF KILLING

日本語訳すると、「殺戮行為」といった感じだろうか。
あらすじは以下の通り。

1965年、インドネシア政府が軍に権力を奪われた。軍の独裁に逆らう者は、"共産主義者"として告発された。組合員、小作農、知識人、華僑。西側諸国の支援のもと、1年足らずで100万人を超す"共産主義者"が殺された。
実行者は"プレマン"と呼ばれるやくざや民兵集団。以来、彼らは権力の座に就き、敵対者を迫害してきた。
殺人者たちは取材に応じ、自らの行為を誇らしげに語った。その理由を知るため、殺人を自由に再現し、撮影するように彼らに依頼した。
本作はその過程を追い、成り行きを記録したものである。
(作中冒頭の字幕説明より)

虐殺の実行者であった、1人の老人に密着したドキュメンタリー。
この映画の最大の特徴は、「実際の虐殺の実行者をキャストにして、当時を再現する映画を撮影する」過程を撮影しているところである。


9月30日事件

本作が取り上げている"共産党狩り"とは、1965年にインドネシアで発生した軍事クーデター(9月30日事件)と、それに付随する形で行われた大虐殺のことを指す。
9月30日事件が起こったのは冷戦の真っ只中のことで、左傾化しつつあった当時のスカルノ大統領を警戒した西側諸国が大きく関与していたとか、いろいろな説があるらしいが、今なお真相は明らかになっていないらしい。
ただ、軍事独裁政権下に大規模な"共産党狩り"が行われていたのは事実で、犠牲者の数は20世期で最悪規模のものとなっている。
これは個人的な推測の域を超えないが、インドネシア国内において華僑は経済的な影響力が高く、"共産党狩り"が民衆に支持された背景には、富裕な華僑を妬む気持ちもあったのではないかと思っている。

この事件を契機としてスカルノ初代大統領は失脚することになるが、当時ジャカルタに住んでいた第3夫人のデヴィ夫人も危険な状態に置かれており、「いつでも逃げられるように、常に逃走経路をシミュレーションしていた」とメディアで語っているのを見たことがある。
今ではバラエティ番組で定番の面白いおばあちゃんだが、実はインドネシアの激動の歴史を生き抜いた「生き証人」なのである。


感想

ここからは個人的な感想。
ネタバレを含む形になるので、実際に鑑賞したい方はここでこの記事を閉じていただきたい。

再現映画の制作に関して、大量虐殺の実行者の一人であった老人はこう語る。

とにかく、見せることだ。これが歴史だと。これが我々だと。未来に記録を残さなくてはな。(中略)一歩一歩、着実に進めながら物語を伝えて行くんだ。俺たちが若い頃、何をしたのか。

この時、彼が誇らしげな表情をしているのが特徴的だ。
つまり、自らの行為を「負の遺産」として伝えていくのではなく、鬼退治を成功させた桃太郎のように武勇伝として伝えていこうとしているのである。

その後、実際に虐殺が行われた場所へ移動し、その様子を具体的に語る。

ここは亡霊だらけだ。大勢、殺されたからな。非業の死だ。ピンピンしてたのにここで殴られ、死んだ。(中略)初めは殴り殺していたが、流血がひどすぎた。そこら中、血だらけだった。掃除をする時、においがひどくてね。流血を避けるため、これ(針金)を使うようになった。

実際に針金で締め殺す様子を再現するが、興味深いのはその直後の発言だ。

こういうことすべてを、音楽と踊りで忘れようとした。ハッピーになって、酒を少々飲んで、大麻を少々やって、それと少しのエクスタシーもやったな。酔って、とんで、ハッピーになれる。

当時、共産主義者の迫害は政府主導のもとで行われており、政府が制作したプロパガンダ映画もあった。
悪者に仕立て上げた共産主義者を拷問し、殺害する様子を映像に仕立てたもので、その映画を全国の子どもたちに見せることで、反共的な思想を植え付けていた。
番組制作者が「あの軍事政権時代のプロパガンダ映画について、どう思いますか」と質問すると、老人はこう答える。

俺はあの映画のおかげで、罪の意識を持たずにすんでいる。あの映画を見ると安心できるんだ。

また、このような発言もある。

俺の場合、結局のところ、寝ているときにうなされるのは、針金で絞殺したヤツの死体を見たからだ。(中略)目を閉じると脳裏によみがえる。それで悪夢を見る。
なぜ、男の目を閉じてこなかったのか。帰りはそればかり考えていた。これが、俺の悪夢の根源になっている。閉じてこなかった目がいつも俺を見つめている。あの目が、俺の心をひどくかき乱してるんだ。

彼らは当時の自らの行為を誇らしげに語っているが、罪悪感がないわけではない。
いろいろな大義名分をつけて、罪悪感をもたないようにしている
実際、彼らは根っからの極悪人ではない。
多少は素行が悪いところがあるにしても、いたって普通の人である。
例えば、小動物にちょっかいをかける子どもをたしなめる場面も見られる。

再現映画の制作が進むにつれ、自らの虐殺行為を誇らしげに語っていた老人の面持ちが神妙なものへと変化していく。
村落の女性や子どもを迫害し、家を焼き払うシーンの撮影後、彼はこう口にする。

正直なところ、後悔している。ここまでひどい光景になるとは、想像もしていなかったんだ。友人にもっと残虐に演じろと言われたが、女や子供の姿が目に入った。この子たちの未来はどうなる?痛めつけられた上に家まで焼かれる。いったい、どんな未来が待ってる?一生、俺たちを恨み続けるだろう。そう考えると、どうにも…。

「後悔している」というのは、当時の行為に対してとも、再現映画の撮影に対してとも受け取れるが、後半のセリフは明らかに当時の残虐行為に対する自責の念である。

再現映画のクライマックスシーンの撮影で異変が起こる。
拷問を受け、殺される被害者の役を老人が演じるのだが、途中から手が震え出し、呼吸が乱れ、放心状態になって撮影の続行が困難になる。
彼はその時の映像を振り返って、涙を浮かべながらこう語る。

俺が拷問した人たちも、同じ気持ちだったのかな。拷問した相手の気持ちがわかる。撮影の時、俺は尊厳を踏みにじられた。傷つけられた。すると恐怖に襲われた。突然、体を乗っ取られた。恐怖が俺を取り囲んだ。(中略)本当に気持ちが分かるんだ。これは俺が罪人だってことなのか?同じことを大勢にやったよ。全部、俺に返ってくるのか?そんなのはイヤだ。報いなんて受けたくない。

ドキュメンタリーの最後に、針金でたくさんの人を殺害した現場に再訪するのだが、番組の冒頭では誇らしげだった彼の口調はすでに弱々しいものになっている。
そして、老人は急に激しく嗚咽を漏らし、側溝に嘔吐する。
この場面が、このドキュメンタリーの肝になっていると思う。
後悔の言葉を口にするのではなく、許しを乞うのでもなく、生理現象となって表れているのだ。
何かと理由をつけて一生懸命フタをしていた罪悪感が、再現映画の撮影を通じて一気に顕在化し、彼の体に異変をもたらした。
「人を殺す」という行為の嫌悪感が、理性ではなく、いかに人間の動物的なところに働きかけているのかが分かった。


おわりに

国内最大の民兵組織であり、当時の大量殺人を指導した「パンチャシラ青年団」の指導者はこう語る。

民主化しすぎなんだ。ムチャクチャだよ。"民主化"ってなんだ。軍事独裁時代の方がよかった。経済面でも、安全面でも。

彼は反共的な思想を強く持っている。
しかし、隣国の例を見れば分かるように、共産主義国家も独裁の体を取っている。
反共であろうと、容共であろうと、行き着く先は同じであり、その過程で"反逆者"の大量虐殺も行われうる。
これは共産主義に限った話ではない。
宗教も、主義も、突き詰めると独裁的な性質を帯びてくるものであり、また、独裁を望むものにとって格好の口実になりうるのだろう。

このドキュメンタリーで密着していた老人が、本当に「反共的」だったかは怪しい。
彼もまた、独裁国家の統制の中で思想を歪められてしまった被害者の一人だったのかもしれない。
進んで殺人に加担するようになるほど、人間がいかに簡単に洗脳されてしまうのかを、このドキュメンタリーは教えてくれる。

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