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無駄で暇つぶしで、でもやりたくて。

公務員でもなければ社員でもない。雇用もされてなければ何かに守られてる訳でもない。安定した収入には少し遠く、安定はしなくとも安心できる収入って所にも届いてない。一抹の不安しかない。

でもしょうがない。

順序は少し違うけど、「何で家族のエッセイ本を出版したいって思ったんだろう?」考えてみました。考えてます。考え続けると思います。

複雑に沢山の思いがあり、浅はかに見れば”残したい”とか”伝えたい”とかあるんだけど、他にもまた別の思いがあるみたい。

エッセイの出版なんて、お金を稼ぎたくてやるには非効率極まりないと思う。間違いなく家族を抱えながらも一末の不安も一緒に抱える男がやるべきことではないと、間違いなく思う。

でも、ここに家族は居ない

自分自身が”やりたい”と、身勝手に、狂い、走り出している。いや、「狂う」というには少し違う。走り出しているにも少し違う。それが当たり前かのように。平然と。日常を過ごすかのように。無風のその場所を、無風のままに、歩いてる。


なんか変なの

家族のエッセイ本を出したいと言ってるのに、家族が居ないだなんてね。

でも、この変な感じがたまらない。上手に絡み合っている。綺麗ではないけど複雑に絡み合って、なんとなくまとまっている。そんな気がする。


壮大に無駄なことだ。とてつもない暇つぶしだ。でもやりたくて仕方のないことだ。


多分これって、お金がいらない世界になってもぼくは「やりたい」と走り出すんだと思う。本を出したいと走り出すんだと思う。伝える人が居なくても走り出すんだと思う。届けたい人が居なくても走り出すんだと思う。

これでいい。これが良い。できればこうありたい。自分自身にそう願う。

これが全てではないけど、こんなものがあっても良い。

何かにとらわれないことって、そこに自分が居るなーっと、ね。


これから。

これからどんな感じで書いていけばいいのか?もちろんまだ考えている最中です。ちゃんとそこを見据えて書いたこともなければ、どんな文体がいいのか?どんなフォーマットだとおもしろいのか?読みやすいのか?考えてる。

人物紹介やストーリーの見せ方など。素人なりにしなきゃいけないなっと思う。そして完結したストーリーではなく、現在進行形で走っているものだからこそまた少しおもしろくも難易度が上がる。

これからの家族を書いていってもいいんだけど、これまでの家族もやっぱり書きたい。どちらも大事だ。

なんならこれまでの家族も忘れない内に書き留めておきたい。あまり美化されすぎないうちに、鮮明なうちに、文章って言う形にしておきたい。


自分の殻の中で考えながらも、空っぽの自分には勉強も必要だと思うから、エッセイを出すと決めて、エッセイも読み漁ることにした。適度に他人様の文章を自分の中に入れ、自分が邪険にされない程度に自分の中へ落とし込まれたらいい。

そんな訳で、ぼくの文体はこれから色んな形へと変貌すると思います。筆跡なんかと同じで変えようと思ってもそんなに変わらないかもしれませんが、でもそこに自分が自分らしくのっかるように、書き続けたいと思います。

時系列なんかも少しばらつくんだと思う。

昔のことを書いてみたり、最近のことを書いてみたり、昔のことは昔のことでもぼくのルーツに触れることにまでさかのぼってみたり、ちょっと美化されたぼくの記憶にまで還ってみたりなんかして。

どんな形になろうとそれがぼくなんだと思う。

思いのままに。でもしっかり学びつつ。でも自分が薄れないように。


とにかく、これから沢山のことをちりばめていこうと思います。時に乱雑に、時に激しく、時にユーモアに、時に重く。その時の心の情景により言葉も変わり、それもまたエッセイには欠かせない感情色彩なのかと勝手に解釈しております

今日は短いですがこの辺で。

家族のエッセイ本を出したい!っと思ってから、文章との向き合い方の角度が少し変わった気がします。文章との向き合い方が変わると考え方も見え方も変わり、家族の見え方もまた変わります。

言葉を発さない子供に、さらに思いを馳せてみたり。


こんな風に、こんな文体で書くと思い出すことがある。ぼくは昔ホストをやってた。決して誇れるものではない。でも、恥ずべきことだとも思ってない。

その時に、こんな風な文体で時折気持ちを吐露してたことがある。

すると知り合いの反応はこうだ。「何?病んでんの?」

全然そんな事はない。

全くもってそんなことはない。

好きな人と一緒に過ごしている女性と、どうでもいい人と一緒にいる女性が別人のように、大好きな友達と一緒にいる自分とどうでもいい友達と一緒にいる自分と、鬱陶しい上司と一緒に飲む時間と、気心の知れた知人と飲む時間の自分。その自分が違うように、ぼくも言葉の世界ではまた普段と違う自分が居る。

病んでなんかない。ただ自分で居るだけだ。言葉の世界に病なんかない。ただ自分で居るだけだ。ただ一つ、何かに侵されるとしたら、その「病んでんの?」って言葉に、自分を失うこと。ただそれだけだと思う。

言葉の世界の自分もまた脆い。だからできるだけ自分のままで、ただひたすらに自分のままで。そう願い、エッセイの出版を夢見てます。

本になる事を望んではいますが、望みすぎません。望みすぎないと言うのは狙わないと言うこと、、、だと思う。

今回のこの短い言葉の中でもぼくの心の乱れがあったみたい。


ね?


エッセイとして本の出版を目指し望むことは変わりません。でも、狙わない。ぼくはぼくのままで無駄に、自分のままで書き続ける。ぼく自身に対して一番価値のあるものと感じれるように、ぼくのままで書き続ける。

周りの言葉にも侵されない。エッセイを出すなら…、なんてゴールにも侵されない。誰かの為、家族の為、世間の為、親の為、そんな為にも侵されない。自分のままで。この自分のままで。感情のままに。人間らしくぼくらしく。言葉を必死で紡いでいきたいと思います。

ぼくがぼくへ逃げる、そんな言葉の世界かもしれない。


良い。すごく心地の良い場所。

これからぼくやぼくら家族を見守ってください

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