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創作小説 『六弦』

『私、死にたいのです』
彼女は、聞き取れない程の小さく
掠れた声で言った。

『この世界…いや、私の目の前の世界は乱暴なお祭り騒ぎで私を振り回す。その度に私は悩んできたし苦しめられてきた。
この身体も心もすっかり汚れてしまいました。そんな自分を見るたびに思うんです』


-無機質ナモノニナリタイト-


僕は驚いた。と同時に
何か胸に汲み上げる
言葉では表せない不思議な感情が芽生えた。

『ただ、私…』

『不様な死に方はしたくないのです。入水したら体は浮腫むでしょう。膨れ上がった身体は醜い。
首を吊った後の姿も、焼け死んだ姿も残酷なものです。薬も…ね。
色々調べたんです…気付けば毎日
死ぬ方法を。

でも、女ですし

せめて美しいままで
死にたいんです。眠ってる様に』

静寂が二人を包む。
この女は狂っているのか
いや、もしかしたら彼女こそ
本当は正常なのかもしれない。
便利になればなる程、代償として複雑になる現代社会。
喧騒とする世界で死んだように生きる事を強いられる人間も存在する。
自ら望んで生まれたわけではないのに…。

美しいままで居ることは、この世の中の法則では叶わないことだ。
それを彼女は実行しようと模索している。
しっかりとした化粧から覗く
小さな皺も彼女には許されない事なんだろう。
彼女から漂う甘い香りが
人工物の賜物なのも彼女にとっては許されないのか?
小綺麗に見える服装もピアスも
ネックレスさえも
彼女にとっては…自尊心を傷つけられるのか。

僕の脳は彼女に言う言葉を探していた。浮かんでは消えまた浮かんでは消えてゆく。
どんな言葉も今の彼女には慰めにもならないだろう。
僕はごくりと言葉を飲み込むしかできなかった。 

衰えゆく身体、無垢でいられない心
当たり前の事だと思っていた。
だが、もしかしたら流されるままに
気付かないフリをしていたのは
僕達なのかもしれない。受け入れたつもりでいただけで自然と諦めていたのかもしれない。

彼女はその当たり前さえも拒絶して苦悩しているのか。

彼女は瞳の奥にあるちいさな灯を
隠す事なく僕をじっと見据えた。
背筋に冷たい感覚が走る。

美しかった。

それはどこか、消え入りそうで
妖しく動く蝋燭の灯りの様だった。

覚悟を決めたように、ハッキリと
した声で言った。

『貴方の歌の様に死にたいのです。』


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六弦琴とはなんと奥深いものなのだろうか。
この指が放つ音の微かな行方が
風に溶けてゆく。線香の煙が揺蕩うように形を変えて
静かに天へと昇るのだ。

その余韻を途切らせるのも
僕には罪深い行為だと思った。

その余韻さえ素晴らしく美しい
旋律の一部なのだ。
僕はずっとその行方を見ていたい。
その行方だけを見ていたいのだ。

僕は売れない
ミュージシャンの端くれで
日銭さえもままならない。
仕事の傍らでしか
この素晴らしい行為をできない始末だ。
それでも、あの行為は
僕の美学を刺激する。
爪先から、頭の先まで痺れるような
強烈な快楽なのだ。

粗末なライブハウスは
陰気な精神病棟の隔離室みたいだといつも思う。
窓もない、ただの暗闇の中は
冷たい機材の山の中に佇む
息さえもうまくできない窮屈な
檻のようでもあった。

最初は誰も居ない場所で
演奏すればいいと思ってた。
実際にはそうしていた。
この美しさを独り占めしている
優越感にひたすら酔いしれた。

ただ、ある日ふと覚めてしまった。
この旋律を
閉じ込めておくのは惜しい気がしたのだ。
この感情を、この旋律を
美しさを誰かと共有したい

そんな願望が芽生えた。

それは日を追う毎に膨らみ続けた。
淡い期待だと解っても、いた。
解っていても止められない。
弾けそうに膨らんだ願望を止める術を僕には知ることさえもできなかった。

この美学を夜通し語れる人間がいたらどんなに幸福な事だろうか。
かつての文豪達が異国の美しさを
吸収して筆を走らせ、互いに讃え合い夜通し討論する様に…

音の美学を語り合いたい。
僕の過ちはそこから始まった。


客に暴言を吐かれようが
僕は耐えた
旋律を遮る、馬鹿でかい声も
金切り声のあげるヒステリックな
笑い声も
癪ではあったが到底仕様のない事だった。
それよりも、耐えられなかったのは
同じ仲間であるはずの
演奏家の奴らは
六弦琴の良さを理解できるだけの
脳がないのだ。
六弦琴の値段が高けりゃ良い音が出せるわけじゃない。
弾き手の腕に余るほどの名器の
音は、例えるなら女の悲鳴だ。
鳴るのではない。六弦琴が叫ぶのだ。苦痛と、屈辱に耐えたねた
絶望の声。それを紅潮に酔いしれた顔でかき鳴らし歌い上げる姿は無様で滑稽だ。

それを、自慢げに話す輩も
その上っ面な博識を饒舌に話す輩さえも
ボディに刻まれた幾つもの傷の跡を見ては、哀れで仕方なかった。

僕にとってみれば
六弦琴への凌辱にしか
見えなかったのだ。

いや、その叫びを聞くのが
耳を塞ぎたくなるような
一番耐え難い苦痛でしかなかった。
悲しみに満ちた音。
精神を掻き乱す不協和音。


上っ面な歌が
その悲鳴に掻き消される。



何度も言おう。
六弦琴は完璧なのだ。一切の無駄がない。

起源は遥か昔のスペインだという。
ヨーロッパ中世後期の楽器であるguitarra latina(=くびれた胴と4本の弦をそなえた楽器)をもとにして、16世紀初期に派生したものである

そして、時代とともに改良され
今の形になった。

六弦琴が日本に持ち込まれたのは江戸時代の話。
黒船とともにはじめて日本に入った。ペリー使節団が演奏したそうだ。 

日本で馴染みの深い弦楽器は
中国から伝わったとされる
琵琶だろう。
雅楽で演奏されるものだ。
絵巻で描かれるものも琵琶が多い。

日本の六弦琴の歴史はまだ浅いのだ。

なだらかな六弦琴のその形状は、女性のふくよかな曲線美だ。上半身から下半身にかけての括れを連想させる。
その音の繊細さも、情緒の折の切なくも甘美な女の声そのものなのだ。

胸に巣喰う女性特有の情念も、その喜びが故の歓喜さえもその音で表現できる。
この指が弾けば弦を伝いその心を震わせ、鳴くのだ。 

僕はそう固く信じてきた。

弦の種類も重要なのだ。
出鱈目な弦ではいけない。
その女に見合う弦でなければ
満足な音は出してはくれない。

そして、何より
触れれば触れるほど
よく鳴る様になるのだ。
まるで夜毎の情事のように
指に身体に、触れる数だけ
よく馴染む。

僕は、六弦琴にのめり込めば込む程取り憑かれてしまった様だ。
恋煩いのような存在。
そして同時に、人間の異性に
興味を無くしてしまった。
男性としての機能も、いつの間にか無くしてしまった。


企みを含むその見え透いた色目も
甘い言葉で誘惑するそのふくよかな唇も
大きな瞳から溢れる涙も
華奢で小さな背中を見ても

僕から見たら
煩わしいとしか思えなかった。


僕はすっかり狂人の世界へと
足を踏み込んでしまったのか。
それでも、人並みには幸福なのだ。
人を愛せなくても六弦琴さえ
愛していればそれでいい。
僕にはなんら、気にもならない。
僕は幸福だ。


そう、あの時までは。

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