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世界と自分の関係を考える

なんでこんなことを延々と考えているんだろうか

自分がものごとをどう認識しているのか?を理解しておくことは、いろいろなところで役に立つ気がしていまして、一回ちゃんと考えよう、とは思ったかもしれないけれど、役に立つかどうか、というよりも、「世界とはなにか」「自分とはなにか」ということについて考えるのが、多分楽しくなってしまったんだろうな、と思います。

長文になってしまったんですが、特に出口もなく、最近の読書で感じたことを書き留めました。

はじめアルゴリズムという漫画が好きです。

主人公のはじめくん(小学五年生)は、数学の天才で、数学を通して、先生に出会い、友だちを作り、世界を理解して、自分の世界を広げていく物語。僕自身は数学めちゃめちゃ苦手だから、数学の議論のことは全然わからないんだけど、全然わからなさも気持ちよく楽しめる漫画です。

その中でこんなシーンがあります。


そのとき、ちょうど考えていたこととリンクして、そうだよなー、と膝を打ったのでした。

実在主義と構築主義について

科学とは何か、ということを考える中で、「世界」が存在しているか、ということについて、いくつかの立場があるということを知りました。

ざっくり言うと、こう書けると思います。
「世界」の存在を前提として、それをそのまま「認識」しているという立場の実存主義と、どう「認識」するか、が出発点となって「世界」がつくられる、という立場をとる、構築主義(構成主義ともいうみたい。)。

後述する「なぜ世界は存在しないのか」に書かれている定義はこう。

実在論:「およそ何かを認識するときには、わたしたちは物それ自体を認識している」とするテーゼ。
構築主義:「およそ事実それ自体など存在しない。むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだ」と主張するあらゆる理論の根底にある考え方。

多くの実験科学者は、ゆるやかに実在主義の立場をとるんじゃないかなあ、と思うのですが、僕の出会ったこの本では、こういうことが書かれていました。

私たちが「現実だ」と思っていることはすべて「社会的に構成されたもの」です。もっとドラマチックに表現するとしたら、そこにいる人たちが、「そうだ」と「合意」して初めて、それは「リアルになる」のです。

なんか、言っていることは分かる気がするんだけど、どこかしっくりこない。本の中でも、自然科学を構造構成主義が扱った場合に、どういう感じになるのかはあまり説明が尽くされておらず、よくわからない。僕には関係ない立場なのかな、と思いたいけど、一面ではある説得力を感じており、すごく気持ち悪いな、と思っていました。

構築主義も、現実や、実存を全否定しているわけではない、と言っているので、そうか、自然科学のあり方に真っ向から対立するわけでもないのか・・・と思うと、なおさら無碍にもできない。

僕は、「構造主義的実在主義」とか「実存主義的構築主義」みたいな立場なんじゃないかな、って勝手に造語を作って、考えをこねくりまわしていました。

構築主義的実在主義とは?(勝手な造語です、あしからず)

冒頭の手嶋くんの発言とほとんど同じなのですが、僕はこういう考えにたどり着きました。
「世界は存在している。しかし、人間が認識できる形でしか、その存在は認識できない」

このときの考えのベースになったのはこの本。

著者の実重さんは、同郷の大先輩で、僕が大学時代からお世話になっている方で、実重さんのお話を聞いては「僕はまだまだ賢くなる余地があるんだなあ・・・」と、歳を重ねて成熟していくことに対する希望を与えてくれる人。

これを読んで感じたのは、僕たちの「認識」というのは、つくづく、僕たちの体の構造とか、知覚にものすごく影響を受けているんだなあ、ということだった。ゾウリムシや大腸菌に遡ることができるような、階層進化の一形態として人間がいるのだとしたら、なんとなく万能な気がしている僕らの「脳」が生み出す「認識」も、きっと万能なんかじゃないんだろうな、という気がしてきた。

それで行き着いたのが、「世界は存在している。しかし、人間が認識できる形でしか、その存在は認識できない」という考えだった。

「世界」の「認識」は「主観」によって拡張されてきたと思う

次に、Ph.D.とは何か、を説明した記事からヒントをもらいます。

まず、記事の考えを説明すると、「人類全体の知見」が円で表せるとして、小学校、中学校、、、と勉強していくことで、円の中心から、外側に向かって、どんどん多くの知識を獲得していく。
大学に入ると、特定の専門性を身につけていくので、知識は、同心円状の広がりではなく、ある方向に尖った広がりに変わる。
そして、やがて、自分の知識は、人類全体の知見の円周に達する。
ここで、円周をちょっとだけ広げることができたとき、これをPh.D.と呼ぶ。


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冒頭で少し言いましたが、僕が、構築主義を簡単に捨て去ることができないのは、実は、自然科学の研究開発においても、「主観」って、ものすごく大事なものだと思うから、なんです。

研究によって、客観的な事実を積み上げていくことで、自然科学が発展してきたと思いますが、「どういう研究をするか」=「世界を理解するのにどういうアプローチをとるか」というのは、非常に個人的な想いで決まるものだよなあ、というのを、最先端の科学の現場にいて、感じていました。

上のPh.D.の図でいうと、どの方向にどんどん知識を伸ばしていって、円周のどの部分を広げるか、というのは、研究者本人の「主観」とか「想い」で決められるもの(正確に言うと、決められる部分があるもの)だと思うのです。

これの時間を2000年分くらい逆戻しさせると、いま「人類全体の知見」として持たれている知見(黒い円周)も、もとはといえば、先人たちの「主観」の赴く方向へと拡張されてきた結果なんだよな、と考えられます。

もう一度、構築主義の定義を貼っておくと、こういう感じ。たしかに、「わたしたち」がいっさいの事実を構築している、という見方もできるのかもしれない。と思いました。

構築主義:「およそ事実それ自体など存在しない。むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだ」と主張するあらゆる理論の根底にある考え方。

いやいや、だからといって、なぜ「事実それ自体が存在しない」という前提に立たないといけないのか?というところが納得もできないけどぼくに哲学者を論破できるわけもなく、悶々としていました。

なぜ世界は存在しないのか

そして、出会ったのがマルクスガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」。この本が面白かったし、非常に明確な答えを出してくれました。

正確に要約するのが非常に難しいところではあるのですが・・・
まず、「世界が存在しない」というのは「無限の外側ってあるの?」という問いの答えがノーである、というのと同じ考え方なのかな、と理解しています。「世界」というのを、「すべてを包摂するもの」(ざっくりいうと)と定義した場合、「「すべてを包摂するもの」を包摂するもの」」????っていう話になってしまうので、「無限は無限だよね」と受け入れるしかない。

この「世界」を説明する要素として「対象領域」という概念を持ち出してきており、これがいろいろな議論に気持ちよく決着をつけてくれます。

なんとなく、僕が実在主義と構築主義の各々の主張を読むにつけ感じていたのは、実在主義は自然科学の話をしており、構築主義は社会科学の話をしていて、議論がねじれの位置にあるから、収束しないのでは?ということでした。マルクスガブリエルが、これを「対象領域」という言葉できれいに片付けてくれていまして、「対象領域が違えば、そこで議論される「存在」の仕方も違うよね」と主張します。

構築主義の人たちがなんと言おうと、僕のフラスコの中には分子はいるんだよね、というのは、化学の対象領域の話を、社会科学の対象領域の話で議論してはいけない、というある意味単純な話だったわけです。(こう書いてみると、なんか理解が浅すぎる気がする・・・そんなのマルクスガブリエル以外の哲学者たちだってわかっている話な気がする・・・)

一応、一回読んでみて「「世界は存在している。しかし、人間が認識できる形でしか、その存在は認識できない」」っていう仮設自体は、なんか全然おかしなこといっている、って言うわけではないんじゃないかなあ、という感想を持ちました。

唯識の思想との対比がおもしろい

ここまで見てきたのは「世界」をどう「自分」が「認識」しているかという話でしたが、僕がコテンラジオで出会った「唯識の思想」は、「自分」とはなにか?を徹底的に突き詰めるものでした。

唯識の思想は、実在主義とも構築主義とも違っていて、「すべては心の中のできごとにすぎない」と考えます。これまた極端なわけですが、唯識の思想が科学を否定するわけでもないのが難しいところ。

唯識の思想を説明するのは、もう僕のキャパを超えてしまうので割愛しますが、ここまでの議論との違いを絵にすると、こういう感じ。「自分」の正体を探して、どんどん深く潜っていくイメージをもちました。

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あと、「唯識の思想」でつかわれる「わかる」という言葉が、どうやら僕の知ってる「わかる」とは違う意味なんじゃないか、という気がしています。

冒頭、下記のような感じで「自分」が存在しないことを突きつけられます。

「自分の手」と言ったときの「自分」というものが本当に存在しているか、観察してみてください。存在していないことに気がつくと思います。

本自体はめちゃくちゃロジカルに、心しか存在しないことを説明してくれているのですが、その説明が、ちょっと僕の知っている形式じゃないことを端々に感じました。演繹的でもなく、帰納的でもない。胸に手を当てて静かに考えると、「わかる」でしょう?という説明の仕方でした。

自分の持ち物はなにか?という問い

最近、「自分の持ち物が何かを考えている」という問いを投げかけられました。

僕はこれを聞いたときに「自分とはなにか」という問いに置き換えて考えるのがよさそうだな、と感じました。持ち物、という言葉と、どこからどこまでが自分で、どこから先が自分じゃないのか、ということと繋がっていそうだから。(ゴンの「周」をなぜか思い出した)

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この「自分とはなにか」について、ロジックで結論をだす、というのは、なんか難しそうだな、というのが、唯識の思想を読んだいまの僕の感想です。どう感じるのか、から考えたい。

でも、そう考えると、「感じている」という僕の認識と、その「感じている」をつくるぼくの身体が、自分、ってことになるのかなあ、と、ロジックで考えてしまっているので、今日はこの辺で。

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