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山本七平「日本人とは何か。」

さて、ようやく読み終えたのである。山本七平は、このあとも主要な著作については順番に読んでいくことになるだろう。

京都に来てからの私の関心は、ようするに山本七平のいうところの「日本人の行き方」なるものが、グローバリズムが前提となった現代の企業活動において、なお競争力を持ちうるか、という点に尽きている。

以前も書いたように、任天堂はかなり純粋な日本型の運営スタイルを、相応の注意深さをもって維持している企業で、その方面からいっても、よくもわるくもここはデジタルエンターテイメント分野における日本代表といってよいと思うが、ここでの私の関心は、今後10年超の比較的長期のスパンでみた場合にこうした純日本企業はグローバリズムの競争において生き残っていけるのか、という点である。

なぜ、私が日本型にこだわるのかといえば、ここでも書いたように、私の仕事のやり方や物事(技術上、ビジネス上の課題)への取り組み方が純和風であるからだ。つまり、企業人としての私は徹底してボトムアップ志向であり、狭小な意味でのプラグマティズムの信奉者なのである(まぁ、べつに企業人としてだけではなく、個人としてもそうなのだが)。そして、この会社に来るまでは、それを私の個性だとみなしてきたわけだが、幸か不幸か、それはまったくの思い違いであった。そうではなくて、私はたんに日本の標準的な組織人の発想をもって、これまで仕事に取り組んでいただけだったのである。つまり、ここでは私は特殊ではなく、普通より多少できの悪い技術者のひとりにすぎない。

その程度の存在である今の私の関心は、だから、この会社(と私)のやり方がどこまで通用するのか、その射程を測ることにある。つまり、私は技術者だが、技術的な側面においては私のできることなどたかが知れているわけで、私個人の業績といったものはもはやどうでもいいが、乗り込んだ船が沈むかどうか、というのはとても大事なのである。なぜなら、私はずっとこの先もこの船に乗れるだけ乗り続けてやろうとすっかり肚を決めているからだ。その船が沈んでもらってはおおいに困るのである。個人としての私は、その上で、あとほんのちょっぴりだけ何か見どころのあることができれば、それで満足である。

そういう態度の私にとって、まず知らなければならないのは、この純和風の企業(というか村落共同体)のシステムの詳細な機微である。なぜ重要なのかといえば、船が沈まないかを心配するには、この純和風なるものが世界においてどこまで通用するのかを正しく測る眼力を持つことがまず必要だからである。そしてこの純和風なるスタイルがなぜ重要であるかといえば、結局のところ、それが日本人(の行き方)による組織の強度を最大化する唯一の手法だと信じているからだ。つまり、欧米型の(余計な)ものを混ぜると、かならずそれは中長期的に企業価値によってマイナスに作用すると私は今では信じているのだ。

もちろん、これはかなり極端な仮説であるといえば、そのとおりである。けれども、私の十数年におよぶ企業活動の経験において、(個人のものではなく組織としての)失敗とは最終的にこの日本人の行き方なるものの不徹底から来るものだというのが、現時点のかなり強い結論としてあるのである。この結論を得るのに、私は30代の10年間をまるまる浪費してしまったと思っている。

そうしたわけで、40代にさしかかった私としては、どこであれ私の所属する会社が日本的でないやり口をしそうになったら、全力で止めにかからねばならないと思っている。そのためには、なにはともあれ、ここの行き方のどこがピュア日本的方法論なのかということを私自身が見極められねばならず、この前提の上にさらに、その長所を最大限に活かして、別の行き方をしているものたちにどうやって伍していけばよいのか、あれこれ思案していかなければならないのである。

別の行き方とは、具体的にはそれはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や、ウィリアム・ジェイムズ「プラグマティズム」に代表されるような、米国式資本主義の行き方である。

日本人がいくら米国式を真似てみても、本家には決して勝ることはないし、それどころか、米国式を真似る他国の者たちに伍していくことさえ難しいだろう。なぜなら、根っこの部分があまりに違いすぎるので、同じ考え方やものの見方をしようと思ってもまったく不可能であるばかりではなく、山本七平によれば、私たちの文明は最後進のもののひとつなので(日本の歴史なるものがきちんと始まるのは、飛鳥時代からだし、その前の弥生時代にようやく農耕が始まったことを思い出そう)、歴史的にみれば、原理的に比較優位に立つことさえ難しいからだ。ちなみに、米国は若い国ではあるが、プロテスタンティズムのうえに築かれたプラグマティズムの伝統はひじょうに古いものであることをウェーバーやジェイムズの著作などをふまえてきちんと認識する必要がある。

というわけで、山本七平である。彼の思想の出発点は、日本の敗戦にあるわけだが、私はそうした彼の思想を、もう負けないために、あるいはたとえ負けるにしても、なるたけ小さく負けるために使おうというわけである。

本書「日本人とは何か。」は八百頁超とそれなりにボリュームがある。内容は、天皇制が成立した古事記(政治)、日本書紀(祭祀)の系統の解説から始まって、江戸時代末期にまでいたる日本的行き方がいかにして醸成されてきたかを時代をおって順番になぞっていく、というものであり、最終的には、明治維新がいかにして成功し、その後、敗戦を経て、高度経済成長がいかにして実現したかを、日本人システム(行き方)の発展なる観点から帰納することになる。

山本によれば、それは江戸時代の長い平和がもたらした独自の日本文化の完成が下敷きにあればこそなのだ、ということなわけだが、翻ってみるに、現在の日本は、こうした数百年の天下泰平かつ鎖国の世に蓄積された独自の優位性をほとんどすべて使いつくして、文化的資源が枯渇した状態にあるといえるだろう。人口減だけが、競争力や成長率を殺いでいるというわけではないのだ。

そして、だからこそ、(所詮)日本人でしかない我々は、日本型により強くコミットしていかなければならない。他のやり方を試したりするような余剰資源は、私たちの文明にはもう残っていないのである。そして、そのようにして普遍的日本人性なるものを突き詰めていくことこそが、グローバリゼーションのさなかにあって真の意味の独自性を確立することになる。なぜなら、このやり方には私たちの歴史のすべてが乗っかっているからだ。

そういうことをしみじみと理解させてくれる本である。

重要なコンセプトである「神仏習合」 (=絶対神の欠如=人間中心主義=人間平等主義)や「プリムス インテル パーレス(同輩中の第一人者)」が、どのようにして強烈なボトムアップ志向や強固な直接的実利主義(=コンセプトの不在)と結びつくのか、そして啓蒙主義がいかにして内実を欠いた外殻にとどまり、自己流の解釈(=人生哲学)がのさばることになるのか、といったあたりについては、またおいおい整理していくことになるだろう。こういったものは、私たちの行き方に根深くビルトインされていて、そう簡単に拭い去ることはできない。

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