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濱口竜介「寝ても覚めても」

カメラもウィッチャー3もひと段落してきたので、また別の趣味を再構築しようということで、映画も再開してみんとす。

そうしたときに観る最初の一本というのはわりと大事ではあるのだが、ちょうど濱口竜介の作品が観れるようになっていたので、これにしたのだった。彼の初商業映画である。

端的にいって、ひじょうに素晴らしかった。完全な意味でのカンヌ的作品であった。ただ、それは現代の日本においては、このように微温的なものなのである。

カンヌ的というのは、ようするに人間の精神なるものの多様性および奥深さについての何らかの端的な描写を主題とする作品であるということなのだが、それはこのように日常の場景の積み重ねによっても描写しうるのである。濱口竜介は一貫して、このようなある人物の奥深さなるものを取り扱う作家であったわけだが、その姿勢および技巧はこうして商業映画に場を移しても健在である(もっとも、おかげで彼はあいかわらず、今ひとつうだつの上がらない作家でいつづけることになるだろうけれども)。

そうなのだ、微温的モチーフ、微温的状況によるありふれた微温的愛にこれほどの驚異が隠されているのだ。人間の生活というものはそういうものなのである。そして、そうした奥深さというのはようするに、パーソナリティの奥深いところから生じてくる、言語化不能な何かによるのである。論理や常識や状況によるのではなく。

彼女は理性を捨て去り、またその理性の捨て去られたまま帰還するのである。決して、正気に戻ったからではない。彼女はつねに子宮と唇によって決断する。「私は何にも変わってなかった」と表明するとき、その言葉は自らの理性と常識とに対して、彼女の唇が述べているのである。そして、驚くべきことには、彼女はすぐさま続いてもうひとつのより重大なことに気づく。ようするに、それは強欲というものであり、愛情の氾濫というものなのだということを。そして、それは実際には彼女自身の幸福とはまったく何も関係がないのだということを。そしてさらに、あろうことか、彼女の唇と子宮はかぎりなく聡く、かぎりなく強欲なので、最終的には自身の幸福を優先するのである。

このどこまでも率直な強欲さと氾濫する愛情、そしてこの点について電撃的な速さで行われる体解こそが、この作品の追求する奥深さということなのである。そうしてまさに驚くべきことに、これらの驚異の結果として、彼女は(顔は同じだが)二人の男を同時に、かつ完全に所有することに成功するのである。それも人格の最深部に食い込む長くしなやかな蔦によってしっかりと永遠に掴むのである。

この意志(それは自覚的なものとはかぎらない)による踏破が作品の主題である。それは極めて微温的だが、同時に極めて断乎としている。

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従来、このような微温的な襞を描こうとするとき、濱口竜介は描写を重ねること、それから実際に上映時間を積み重ねることで、その細部を描出してきた。今回、商業作品の時間制約の関係上、そうした手法はとれなかったわけだが、それでも採用された手法がある。すなわち移動である。濱口にとって物理的な移動は重要なモチーフである。それはようするにローディングのプログレスバーの役割を果たしているわけだが、そこで時間の経過とともにロードされるのは、状況というよりは内面の変化である。今回の場合でいえば、それは彼女の内面ということになる。彼女はそうして無自覚のまま聡くなっていったのだ。

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