キユロヒ

64歳、自分の経験や趣味を綴ることで、読んで下さる方の参考になればと思っています。

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最近の記事

4年ぶりのハーフマラソン、2023年11月5日(日)足利尊氏公マラソン

5キロの通過が、24分28秒、ここまではキロ5分で走れた。目標通りだ。今日はどこまでキロ5分で走れるか、そう思ってスタートラインに立った。忘れていたキロ5分のフォームで走っている。周りのランナーは景色の一部になって、邪魔にはならない。  体はスムーズに動いている。いい感じだ。5キロを走ってきて、やっとフォームがスムーズになった。普段の練習は、ユックリ走っているだけなので、このスピードで走るには、工夫が必要だと思っていた。フォームを変えて走る。ただ、それがどれくらい持つかが、

    • 最後の仕事としてのビル管理

      ホテルニューミヤコの面接の時に立ち会ってくれた現場の責任者の年齢を聞いて驚いた。76歳だと言うのだ、自分より10歳も上の人が、元気に働かれていることに感動もした。ここなら、70過ぎ迄やって行けるのではと思った。 ビル管理には、二人の人が働いていて、もう一人の方も74歳と70代の方だった。その方も10年以上この仕事をやられているベテランさんだった。 6月までは3人体制でやっていて、その欠員補充で、2か月以上人が来なかったとのことだった。人気が無い仕事なのかもしれない。 1

      • 働くことに自信を無くして送迎業務に

        やまゆりの里を辞める時には、ひどく働くこと自体に自信を無くしていた。できると思っていた仕事を続けられなかった後悔だと思う。年齢を理由にしたいけど、それだけじゃ無い気もしていた。そこで、疲れない、楽にできる仕事を探した。 送迎業務を選んだのは、楽な仕事だと思ったのが理由だった。誰かを車に乗せて、運ぶだけなのだから、気を使う、力を使うことは無いと思った。最初に応募したところは、病院での送迎で、丁度辞める人がいてその欠員補充だった。面接してくれた上司らしい人は、「パートとしての募

        • 慣れた業種で入所施設で働くも1か月しか持たなかった

          知的障害者については、5年以上の経験があり、扱いや仕事の仕方は慣れていると思った。全くの異種業種に勤めるワクワク感より、自分が疲弊してて、とにかく勤めるかと思った。 最初は、時間の短いアルバイト的な物を選んで面接を受けていたが、全く引っかからず、就職まで漕ぎつけなかった。面接してもらって、結果を聞くまで1週間くらいかかり、それも郵送で履歴書等が送り返される。そんなことが続くと、何処でもいいからと、ハローワークだけの求人から、インデード、カイゴジョブ、エンゲージとネットの求人

        4年ぶりのハーフマラソン、2023年11月5日(日)足利尊氏公マラソン

        マガジン

        • 私の職務経歴書
          16本

        記事

          違い過ぎた2か所の学童保育

          2022年12月に知的障害者施設の仕事を辞めて、2023年1月から市の学童保育の仕事に就いた。先輩の女性職員が3人いて、そこに見習い感じで入った。4月にはそこは市の管轄から民間委託になり、私を含めた4人は、別の場所で、まだ市が運営する場所への移動が決まっていた。 3人は、5年以上勤めるベテランさんばかりだった。学童保育の仕事のやり方も、リーダーさんがなんでも決めるのでは無く、民主的で、役割分担も公平に細かい事でも話があって分かりやすかった。コロナ禍が治まりつつあったが、それ

          違い過ぎた2か所の学童保育

          学童保育の仕事

          64歳の誕生日を迎えるにあたり、1年後には国民年金がもらえる状況になった。厚生年金部分は1万代だがもうもらっている。合計すると、65歳からは8万円弱程度がもらえる。1月の生活費は、15万必要と奥さんから言われていた。 先を考えて、もっと自分の時間が欲しく、働く時間を、今までのフルタイムから減らそうと思っていた。今の職場が、嫌という訳では無く、やっと3年近くやって自分の居場所もあって、後輩もできて、給料も60過ぎの親父としては、かなりもらっていた。逆に幸せ過ぎて、時間や気持ち

          学童保育の仕事

          嘱託職員としての採用

          レンタルのニッケンに勤めながら、以前勤めていた「足利むつみ会」に再就職できないかと思った。同僚だった渡辺さんにも電話を入れて様子を聞いていた。「戻ってくればいいんじゃない」と言ってくれていた。理事長の性格を考えると、元上司は、他人を通じて申し込むより、直接自分で言った方がいいとアドバイスしてくれた。 そこで、電話を入れてみたところ、理事長からすんなりOKが出て、再就職が決まった。待遇も、嘱託職員ということで、レンタルのニッケンに比べると、有給やボーナスも含めると2倍以上の給

          嘱託職員としての採用

          使えない60歳

          ポリテクを卒業せず、また電気工事士2種の実技試験もうけず、そのまま就職してしまった。働くことで、勉強することから逃げ出せる気がして、気楽に勤めてしまった。 勤めたのはレンタルのニッケンで、貸した機械のメンテナンスをするところでした。主に工事現場で使われる特殊機械で、地下道作業で使われる携帯型の二酸化炭素測定器や測量機類の再検査をして、また営業所に配送する仕事です。 就職前の面接時での説明では、色々な精密機械を扱えて、倉庫も自動ラック型になっていて、操作させてもらえるという

          使えない60歳

          失業保険とポリテク

          60歳で定年退職後、1週間の待機期間を経て失業給付を受けられることになった。雇用保険への加入期間が短いので、失業保険は3か月間しかもらえないのだが、働かなくていい時間をもらえることは、とても幸せなことだと思った。屋根のペンキ塗りや、水回りの補修、部屋の片づけ、家自体の補修と溜まっていた家のことができた。 失業保険をもらっている間に、ポリテクセンターのことを知った。7月で失業保険が切れてしまうが、この職業訓練校(ポリテク)に入学できれば、失業保険の給付を継続できることを知り、

          失業保険とポリテク

          57歳の正社員

          高齢者介護の仕事の休日、ハローワークでその日面接が受けられる会社をピックアップしてもらい、電話をかけてもらい面接の予約を入れた。 何かしたい仕事があった訳ではなく、どんな仕事だとしてもやってみなければ分からないと思っていた。逆に、やったことの無い仕事で、新しい人生経験、人間関係、スキルを身に付けるチャンスだと思い、ワクワク感があった。 面接をしてくれたのは、足利むつみ会の理事長で、その会社の最高責任者だった。普通は担当職員が行うのだけど、たまたま電話をとったのがその人だっ

          57歳の正社員

          懇意にする医者が運営する施設に勤めて

          医者が運営する介護施設というのは、ある意味サービスの提供の仕方が違うと思う。診療所が併設されていて、地域医療に貢献しながらで、地元の人が多く利用されているということだ。送迎も、毎日あり、利用者との関係が深いと思う。 誘ってもらうにあたり「こちらで求人してる雇用条件より優遇して欲しいと条件を出していた」ので先に勤めている人より幾分いい条件で勤められた。先代の先生が仲人親だったので、今の先生とも仲良くしていた。 ここは、現行のスタッフが施設の開設準備からいたりして、かなり紆余

          懇意にする医者が運営する施設に勤めて

          これがブラック企業なのか

          ゴミ屋さんからの転職では、持っているヘルパー2級の資格を生かして、介護の仕事に就こうと思った。 「さわやか佐野館」という優しそうな響きに惹かれて、応募したところ、すんなり通ってしまい。直ぐに働けることになった。 驚いたのは、この会社が九州に本社を持つ居酒屋チェーン店の系列会社だということだ、異種業者の参入なんだと思う反面、その居酒屋チェーンが行っている社員教育的なことや営業展開を介護の世界に持ち込むことで、新たなビジネスシーンを生んでいるんだろうと思った。 この会社の時に

          これがブラック企業なのか

          パッカー車の補助員

          老眼で電話の故障修理の仕事を辞めたが、体力だけは自信があった。 仕事の選び方としては、自分ができそうなものを選ぶのだが、何ができて、何ができないのか考えた時、自分のことがまだ良くわかっていなかった。 染物職人で、呉服の販売をしていた自分が、畑違いで公式的なNTTの電話の故障修理という仕事を経験した そこには、できない事ができる様になる喜びがあり、自分を発見する楽しさがあった。だが、1歩を踏み出して、それを継続していくには、自分を殺して、一番下の新米からやっていかなければ

          パッカー車の補助員

          自給2000円の一人親方

          45歳から55歳まで、NTTで電話の故障修理の仕事をしました。 本当は、友達が誘われた仕事だったのですが、本人が行きたくなくて私に回してくれたものです。 私は、それまでニッパとか使ったことが無く、まして電話関係の機械もいじったことがありませんでした。それでも、時給2000円の魅力に負けて、「津久井君なら大丈夫だよ」の言葉を信じて勤めることにしました。 入ったその日に、あまりに畑違いで無理だと思いました。でも、その夜、私の歓迎会が開かれてしまい、仕方無く1週間いることにしまし

          自給2000円の一人親方

          自営業者のアルバイト

          44歳の時に、自営の染物屋さんが暇になり、仕事が無くて、どこかに勤めようと、市の文化会館で行われた集団面接に参加した。 丁度、前の順番の人が知り合いだった。その日の面接では不合格になってしまったが、面接した人から、別の仕事を紹介された。知り合いが、私のことを大変褒めていて、それで、誘われた。 紹介されたのは、隣の市役所の夜間対応の窓口業務だった。二人一組で行う、見回りと窓口対応で、夕方5時から朝8時までの勤務だった。 5人でローテイションで行う感じで、私は週3回程度でだった

          自営業者のアルバイト

          親の後を継いで

          子供の頃から、将来の夢は親の後を継いで染物屋さんになることと決めていました。仕事に関しては、得意先や職先には、小学生の時から車の横に乗って一緒に連れまわされていたので、違和感なくすんなり入っていきました。また、工房内での仕事でも手仕事の染物も中学生の時からやっていたので全く問題がありませんでした。 父親は、自宅を東京に置いて、染織工房を栃木県に建て、人に任せてやっていましたが、仕事自体の減少でその規模を縮小していました。私は、その栃木県の工房に住むことを決めました。それによ

          親の後を継いで