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信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…などと、信州人にはよく言われるけれど…。【麺類・粉物】

東北地方の人間に、この地域の名産品と言えば何ですか?と尋ねると、水を得た魚のようにお国自慢が始まってしまう傾向があるけれども、同じような問いかけを信州人にしてみると、少し悩んだ素振りを見せたあとに、「信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…」という半ばお決まりのような回答が返ってくる。
北東北という、奥州のさらにそのまた奥地のお国に生まれて育った人間からしてみれば、信州ほどいろいろなものを持て余している土地もないように感じるのだが、どうにもお国自慢の話は盛り上がらない県民性と土地柄のようだ。
信州というブランドをわざわざアピールしなくとも、周りが勝手に魅力を感じてくれる土地柄だという境遇に満足してしまっているのか、そもそも豊富にありすぎてあまりありがたみが湧いて来ないのか、拍子抜けするぐらいにがつがつとしたお国自慢は返ってこない。
さすがに反論してみたくなってくるので、「信州には蕎麦とおやきしかない」という信州人のネガティブな幻想を、信州生まれでもない私が打ち砕いてみようと思う。


【麺類】
手始めに「信州には蕎麦とおやきしかない」というその命題を、まずは、その分類群である粉物・麺類のジャンルから突き崩そう。
そもそも、蕎麦というものが、なぜ信州の名産品の筆頭として挙げられるべきものなのかという部分から説き起こさなければならない。
蕎麦は、縄文以来の歴史を背負った、信州を代表する名産品である。
各地に残る縄文時代の遺跡において、蕎麦の花粉化石が見つかっていることから、蕎麦は、栗や胡桃、大豆や小豆などとともに、縄文の管理栽培・簡易農耕の始まりを物語る食材である。
信州のほかには、津軽や山形、出雲など、縄文の息吹きの色濃く感じられる土地には、蕎麦の名産地が多い。
残念ながら、大豆をつなぎに用いたとされる津軽蕎麦は、忘れられた蕎麦になりつつあるけれども、縄文遺跡の付近には、いで湯と蕎麦の組み合わせが付き物でもある。
戸隠と更科、黒い蕎麦と白い蕎麦の代表選手が、長野市の北と南にそれぞれ存在することも面白い。
蕎麦殻の甘皮までを挽きこんだ、風味のよい挽きぐるみの戸隠蕎麦。
一番粉のみを用いた上品な甘みの、真っ白な更科蕎麦。
蕎麦と聞いてどちらの蕎麦を思い浮かべるかは、それぞれ異なるであろうけれども、そのどちらもが信州の蕎麦であるというところが、信州人の蕎麦プライドにも繋がっているであろうか。
信州、とくに北信では、蕎麦の食べ方はざるそばが一番という、ざるそば至上主義のようなものが根強くあって、戸隠蕎麦も更級蕎麦もその点においては共通である。
そんなざるそばには、こちらも信州産の安曇野のわさびが、同郷のよきパートナーといったところで欠かせない。
かつて、小林一茶が句に詠んだように、蕎麦の花は雪のように白く涼しげで、儚さや純粋さ、素朴さなどといった言葉がイメージとして脳裏に浮かぶ。
そのイメージは、弥生時代に入ってきて穀物の王となる、稲の黄金の輝きとは対照的でもあり、信州に広がる蕎麦の花を眺めていると、歴史の片隅に追いやられていく縄文人のうら寂しさのようなものを感じてしまいもする。
黒耀石産出地として諏訪産というブランドを持ち、国宝指定されるふたつの縄文土偶を抱える縄文王国・信州は、1万年の歴史を背景として、蕎麦の名産地なのだと言えるだろう。


信州の蕎麦は、縄文時代の歴史だけを伝えるものではない。
蕎麦の食べ方における革新もまた、信州の街道付近から始まったと想像されるからである。
これまで粉物としてのそばがきやそば団子として食していた蕎麦を、麺状に切って食するようにしたものが蕎麦切りであるが、この蕎麦切りは信州の街道が発祥の地と噂される。
蕎麦切りという食べ方の発祥地には諸説あるけれども、一説には信州は塩尻市の本山宿であるといい、一説には甲州・天目山の栖雲寺門前であるという。
木曽路・須原宿の定勝寺には、蕎麦切りの文字の出てくる最古の文献史料が残り、木曽路・上松宿には、日本で二番目に古いとされる蕎麦屋・寿命そば越前屋が、観光名所・寝覚めの床の近くに店を構えている。
状況証拠から見ると、蕎麦切りという食べ方は、木曽路あたりの中山道の宿場から、急速に周辺へと広まっていったように思う。
一方で、信州には昔ながらの粉物としての蕎麦の食べ方も残っていて、栄村秋山郷や山ノ内町須賀川には、はやそばという食べ方が残っている。
水溶き蕎麦粉を千切り大根に絡めたもので、食べ方としてはそばがきの一種であるという。
そんな中野・飯山地域には、アザミの仲間であるオヤマボクチという植物をつなぎに用いた、幻の蕎麦と形容される蕎麦がある。
富倉蕎麦・須賀川蕎麦という蕎麦であるが、蕎麦自体もさることながら、アザミ由来の香りを含んだ濃厚なその蕎麦湯は、蕎麦以上に味わい深く清々しい。
アザミ類もまた、縄文時代以来、食されている可能性のある山菜・食草であるけれども、信州には、蕎麦以外にも、縄文由来と思われる食材が多く見受けられる。
小布施の栗と東御の胡桃などがその代表であるが、上田市・東御市などの東信・小県地域では、蕎麦よりも胡桃が主役なのではないかと思ってしまうような蕎麦を食する。
胡桃だれ蕎麦・胡桃みそ蕎麦は、この地域の特産品である信濃胡桃をふんだんに絡めて食べる、まるで、蕎麦自体を脇役に追いやってしまっているかのような蕎麦である。
一方、中信では、とうじ籠という竹籠に入れた蕎麦を暖かい鍋の中でゆがくようにして食べる、とうじ蕎麦という食べ方がある。
とうじ蕎麦の発祥地とされる、松本市の奈川地域は、うら寂しい長い隧道を抜けて辿り着く山間地であるが、深い雪と底冷えとが生んだ食文化であるに違いない。
北信には、蕎麦の最高の食べ方はざるそばであるとする原理主義のようなものが根強くあるような気がするが、中信の温かい蕎麦の食べ方は、北信のざるそば原理主義路線に対抗するような部分もあって興味深い。


信州と言えば、圧倒的に蕎麦のイメージがあるものの、信州のうどんもまた特筆すべきものがある。
坂城町あたりで食べられるお絞りうどんは、やはりこの地域の特産であるねずみ大根という辛味大根の絞り汁に浸けて食べる。
醤油やそばつゆが一般的ではなかった時代には、風味豊かな辛味大根の汁に浸けて食べるうどんこそが、最高の美食であったであろう。
坂城の人は、辛みの中に甘みを感じる味の表現を、「あまもっくら」という独特な言葉を用いて行なうけれども、刺激的な辛みのあとに訪れる、大根の甘さやうどんの甘さが、とても癖になる食べ方である。
余計な調味料を使用しない分、そもそも、うどんそのものが美味しくなければ成立しないと思うのである。
山梨県が近いことから、信州のスーパーではほうとうなんかもよく見かけるし、おっきりこみやけんちん水澤うどんを有する群馬県も近いことから、信州人のうどんに対する舌は肥えているかもしれない。
冷たいうどんの名品があれば、もちろん温かいうどんの特産も、信州には存在している。
とうじ蕎麦で用いられた竹製のとうじ籠が、ふたたび登場してくるが、とうじ蕎麦が中信で食べられていたのに対し、うどんをとうじ籠に入れて食べるのは東信地方である。
島崎藤村も食していたと紹介される、小諸・佐久地域の御煮掛けうどんであるが、根菜類などの沢山の具を煮掛けて食べることから、御煮掛けとも言い、とうじ籠を用いてゆがくようにすることから、おとうじとも言われている。
どちらかと言えば、家庭において受け継がれてきた郷土食であり、そのレシピは家庭ごとに異なっているという。
調べてみると、上州草津に投じうどんというものが存在するから、投じ籠を用いる食文化は、中信・東信・北毛へと広がっているのだろう。
小諸・佐久地域の御煮掛けうどんも、上州草津の投じうどんも、本来、うどんと具のみで食べるのが正式で、汁はあえて掛けないのだという。
この点は、中信のとうじそばとは異なるところである。


信州はまた、隠れたラーメン県としての底力もあるように思う。
定番は、信州味噌を用いた信州味噌ラーメンということになるけれども、八幡屋礒五郎の七味唐辛子を掛けて、辛味噌風にアレンジして食べるのが信州っぽい食べ方と思う。
その信州味噌の発祥地とされる佐久地方には、安養寺味噌を用いた安養寺ら~めんという、個性的な味噌ラーメンがある。
大豆の粒感を残している味噌の、濃厚な味覚を愉しめるラーメンである。
佐久鯉の魚醤を用いた鯉魚醤ラーメンや、木曽すんき漬けを用いたすんき塩ラーメンなど、あまり名前こそ知られていないけれども特色のあるラーメンが存在し、マニア層にはたまらないのではないかと思われるのが、信州のラーメンである。
ほかに、B級グルメ系の麺類なら、南信・上伊那地域に、ローメンソースで食べる伊那ローメンがあり、羊肉を用いることから独特の風味が愉しめる。
提供されたそのままではなく、自己流に味をアレンジしながら食べるのが通の食べ方であるとも言われ、醤油・酢・胡麻油を追い掛けして味を研究しながら食べる人も多いようだ。
伊那市の地元スーパーには、キッチンカーのローメン屋台が出没するので、夜の買い食い感覚がなんとなくわくわくしてしまう。
高遠城址の夜桜とローメンは、最高の取り合わせであると思う。


【粉物】
粉物の分類としては、おやきがその代表格であるけれども、これがおやきですと提示できるような典型的なおやきの姿というものは、信州にはないようである。
小麦粉や蕎麦粉を用い、その製法は、蒸しおやき、焼きおやき、蒸し焼きおやきなど、地域によってさまざまである。
津軽地方では、大判焼き・今川焼きのことを指しておやきと呼んでいるので、その地域の方は特に注意が必要であるけれども、おやきの皮には基本的には卵や砂糖は用いない。
具材もまた多岐に渡り、野沢菜炒め、きのこ炒め、切干大根、きんぴらごぼう、キャベツ炒め、茄子炒め、葱味噌、空豆、かぼちゃ、胡桃味噌、餡子など、主食感覚、おやつ感覚から、酒のつまみ感覚のものまで、バリエーションに富む。
おにぎりよりも具材を愉しむ感覚が強いので、おにぎりは酒のつまみとしては食べられないが、おやきならば中に入っている具材の選択さえ間違えなければ、酒のつまみとしても食べられるところがひとつの魅力でもあろう。
飯山市や小谷村などの北部では、上杉謙信の伝承と合わせて、笹寿司や笹団子などの新潟県の影響を受けた郷土食が見られるようになる。
南信や東信では桔梗信玄餅をよく見かけるので、和菓子の世界では、まるで信玄と謙信のせめぎあいが今でも激しく行われているかのような様相である。
ほかに北信地域の粉物としては、マニアックなところで、やしょうま、にらせんべい等がある。
やしょうまは、仏壇に飾られることの多い米粉菓子のひとつで、東北にいたころ、お盆に見かけた記憶があるけれども、その本場は信州だったようである。
さすがは善光寺を有し、浄土信仰の文化が色濃く残る信州・北信濃といったところである。
にらせんべいは、せんべいという名前だけれども、せんべいではなくお好み焼きに近い。
韮を混ぜ込んだ小麦粉を、せんべい状に薄く焼いたので、せんべいと呼ぶらしい。
飽食の時代以前の、手作りおやつ、母の味といった雰囲気のもので、決して主役にはならないけれども、信州人の記憶の底に眠っているソウルフードであると言えよう。


南信方面では、おやきに変わって粉物の代表格となるのは、五平餅である。
秋田の味噌付けたんぽと見た目のイメージが重なることから、甘いたんぽなんて想像できないなどと、五平餅を否定的な目で見ていた時期があったものの、山椒胡桃味噌のきいた五平餅のほどよい上品な甘さは、旅先の疲れた体にちょうどよく、今となっては伊那谷遠征時の定番メニューとなってしまった。
どちらかと言えば、味噌付けたんぽよりは、仙台のずんだ餅の方がイメージは近かったのかもしれない。
さらに伊那地域には、もうひとつ、饅頭を天ぷらに揚げて食べるという、一瞬ぎょっとするような、天ぷら饅頭というスタイルもある。
衣のさくさく感と饅頭の柔らかさ、揚げ油と餡子の甘さが絡まりあって、これはもう犯罪的な食べ物である。
地元スーパーには、天ぷら饅頭用の饅頭などが普通に販売されていて、生地が揚げやすいように工夫されているようだ。
どこかで食べたような気がすると思ったら、福島県の会津地域に、この食べ方が伝わっていた。
江戸初期、伊那・高遠藩の藩主だった保科正之の会津転封に伴って、高遠藩から会津藩に伝わったもののひとつが、この天ぷら饅頭であるという。
会津には、長葱一本で食べるスタイルのその名も高遠蕎麦という蕎麦があるのだが、食べ方のスタイルはさて置き、天ぷら饅頭ともに高遠の蕎麦もまた会津に伝えられたようだ。
本来の高遠蕎麦は、辛味大根の卸し汁につけて食べたものであるというから、先に述べた北信・坂城のお絞りうどんを思わせて、なるほどねと首肯したのであった。


北信のおやき、南信の五平餅と比べると、影が薄い印象ではあるものの、東信にはこねつけという戦国真田氏の陣中食と言われることも多い、こねつけ。
かの犬伏の別れにおいても、真田親子が食べて別れたとも言われるけれど、真相のほどはさておき、まぁ、そんなプロモーションもありだろうなと思う。
五平餅とおやきの中間形態のような味と姿は、信州の郷土食の本流としての説得力は高い。
ご飯と小麦粉を混ぜ、味噌をつけて揚げ焼きにするのだが、甘味噌・胡桃味噌・唐辛子味噌と、味噌のバリエーションが豊富なので、三枚ぐらいは軽く食べれてしまう。
個人的に、こねつけとしては邪道かもしれないけれども、赤紫蘇粒餡が好きである。


信州の名産品は、歴史や伝統と色濃く結びついたものが多く、いちいちその説明をするのが面倒くさいから、「信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…」という決まり文句を信州人は多用するのであろうかと、文章を打ち込みつつ思ってしまったのであった。

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