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【ソシガヤ格闘記・第10朝】痺れた感覚を取り戻し、人間にさせてくれる場を目指して。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

昨日は祖師谷まちづくりセンターの皆川さんに時間を割いていただき、
前回の全体の報告会と今後の方向性に関して、話してきた。
皆川さんは非常に柔和な方で優しくて、僕みたいな若造も全面的に支援してくれると後押ししてくれる。ありがたい。

「全体の可能性を増やしていくこと、アクセスできる道をたくさん用意しておくことこそ、参画への障壁や可能性を広げる」

この言葉が、皆川さんと僕の架け橋になっているに違いない。
一つの可能性を突き進むことはできるだろうが、それをやってしまうとアクセスできない人が生まれる。障がいを持っている方、歩くのに困難をきたす方、外に出るのに抵抗がある方、誰にも話かけられないで困っている方、色々な人がいる。全て個性である。これらの人が最初の一歩を踏み出すには、まず知らない関係を知っている関係にしていく作業が必要になる。

最初は地道に人と人を繋げて、偶然性を引き起こす可能性を広げていくことしかできない。でも、その中で一つでも未来のキザシが生まれるきっかけになったらそれでいい。生まれないかもしれない、それでもいい。何か起こった時に咄嗟に浮かぶ顔が一人より二人、少しでも多ければそれでいい。

そんな思いを共有することができたので、ここから前を向いて進めそうだ。
話の中で「居場所」の可能性を広げていこうという話にもなった。自分も以前から考えている通りだし、居場所が必ずしも建物の中になくたっていいはずだ。あることに越したことはないが、なくたって色々できるはず。公園だって、バスを待つバス停だって、通過する商店街だって、色々な場所が居場所になりうるポテンシャルを持っている。そのポテンシャルを輝かせるには、意識の変容とそのポテンシャルを作り上げる物語(体験)を見せる方法を検討する必要があるのかなと。

話は変わるが、昨日は残酷演劇を見てきた。

残酷演劇(ざんこくえんげき)は、フランスの詩人で演出家のアントナン・アルトーによって提唱された演劇理念です。アルトーは、演劇を通じて真の生との結びつきを再発見し、生の感覚を取り戻すために、生々しい関係や魔術的な力を用いて観客の全存在に訴える演劇を提唱しました。残酷演劇は肉体的暴力とは異なり、舞台と客席の区別を排して魔術的儀式の陶酔へと導くことを目的としています

perprexityより引用。

言語の表現方法が実に多様、台詞が所作とともに表現されるだけではなく、所作を超えた動き、音、映像と複雑に連関しあっていた。ときに台詞は意味内容をつたえる役目を放棄し、音そのものとなり、そのリズム、抑揚、強弱、高低で音曲のようになる。自分が残酷演劇に惹かれる最大の理由は、演自体を生への足掻きや苦悶といった行為と捉え、観客さえも演者にしてしまうところである。

残酷演劇の所以は、アルトーがバリ島演劇に感激を受けたことが由来とされている。ガムランのリズムに合わせて踊るバ舞踊の踊り手たちが動き回る姿を、「生きて動きまわる真のヒエログリフ」と形容した。テンポとリズム、呼吸の共有により、心臓の鼓動に合わせた生体験を享受させる。それこそ残酷演劇の主題とすることであり、空間や言葉は後から再配置されていく。

話が回りくどくなったが、感覚が麻痺している世界で、残酷演劇の指し示すものや意義はとても大きい気がした。この上ない喜びや生への感動、などと言及すると、胡散臭いといったイメージが付与される世界。ただ言葉に差し示さずとも、そういった豊かさを手に入れられる場こそ、街に溢れている。

来週も頑張っていこう。来週の投稿は居場所に関する調査をアウトプットしていこうと思う。


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