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毎日の点滴は午後から始まる。(3)

 「これから吐き気止めの薬を入れるね」と言って、看護師の柳井さんが最初の点滴袋を持ってきた。
吐き気止めから始まり、腎臓を守るための生理食塩水を入れて、それから三本ほどの抗がん剤を身体のなかに次々と流していく。薬とはいえ、がん細胞にとっては繁殖を止める毒となる。薬剤師から薬の詳細を説明されたが、もう覚えていない。治療方法が決まれば、あとは毎日が事務的に流れていく。

看護師は抗がん剤の袋を扱うとき医療用の手袋をつけるが、同時にゴーグルもつける。その目が異様に恐ろしかった。目に入ったら毒となる薬をこれから自分の身体に流し込むと想像すると血管がぶるぶる震えて縮む気がした。緊張する時間だ。吊るされた輸液が透明の筒にポタポタと溜まる。それがチュウブをつたわって隠れた注射針から静脈のなかに入っていく。
看護師が腕時計の針を見ながら落ちる速度を調整してるとき、患者も一緒に落ちる輸液の速度を凝視している。無言の時間。でも若い看護師が可愛らしいキャラクターの腕時計をしているとそんな緊張感が一瞬だけど途切れたものだ。そして、「気持ちわるくなったら言ってください」「漏れてたら教えてください」と誰もが同じ言葉を繰り返してその場を離れていく。

自分の人生の中でこんな大量の点滴をするとは思わなかった。そのあいだ、何を考えてるかって? 何も考えていない。眠くなることもある。本を読んでも長続きしない。たまに輸液の落ちる速度を気にして腕を上げたり下げたり、身体の向きを変える。ベッドの上でごろごろが続く。でも不思議と焦りがない。今はそれが許されると思っていた。それしかないと過ごしていた。

 治療が始まって三日目、今日も午後から一日十時間の点滴が行われている。一本目の点滴が終わりに近づいたとき、見舞いに訪れた人がいた。仕切りのカーテン越しに聞きなれない綺麗な声がした。

「真島さん、いる」
「はい、?」と短く応えた私が見たのは、思いもかけない見舞客だった。

名前は、橘はな。
ときどき行っていたキャバクラの女性だ。
カーテンをそっと開けて、細身の長身がぎこちない笑みを浮かべながら、私のベッドに近づいて来た。笑みを浮かべていても、不安は隠し切れない。彼女の緊張感が伝わってきた。
栗色の長い髪はやわらかで病室の蛍光灯の中でも艶を帯びている。しっとりとした髪には二本の光の環が白く見えた。

少し時間を置いて
「どう」
「びっくりしちゃった」
と挨拶代わりに声を掛けてきた。

「あっ、ありがとう」「大丈夫だよ」と応えるのが精いっぱいだった。入院して大丈夫な訳がないと思いながら、こんなことしか言えない。予想外の訪問者に戸惑っていた。
「かよちゃんに聞いて」
「もう、びっくりしちゃった」
と彼女は最初の言葉を繰り返していた。

 無理もない。見舞いなんて誰でもそんなに経験するものではない。まして病気が病気だから。道すがら何て言おうか、顔色が悪かったらどうしよう、などと考えながら来たに違いない。だから顔を見た最初は、緊張して早口になる。でも少し落ち着いてきたら、次は何を話そうかと、また無口になってしまう。予定していた会話のシュミレーションも、すぐに崩れ落ちてしまうのだろう。仕方のないことだ。病人も入院に慣れていない、ましてや見舞客も見舞うことに慣れてる訳がない。

こんな時、元気に活躍するのが入院患者の方だ。今している点滴の説明から入院に至った経緯まで、饒舌に話し始めていた。折角来てくれた見舞客に対して、最大限のサービスをしようと思っている。でも病人は、やはり病人である。徐々に息が荒くなり、相手もそのことに気づき始めていた。
「大変だったね」
病人の事情説明を遮ることもなく、彼女は最後まで聞いたあと、最初に浮かべた笑みとは違う笑みを私に向けていた。オドオドとした笑みが、柔らかく包み込むような上質な絹のような微笑みに変わっていた。

「もう大丈夫だからね」
彼女はそれだけ言った。
病室で意外な言葉をかけられた。でもなぜか違和感のようなものは無かった。懐かしさに似た感触が流れるように私の血管のなかに染み込んできた。

 はなと出会った頃、私はどん底だった。悪い運を次から次へと引き寄せていた。何をしても上手くいかない、頑張っても頑張っても空回りの連続だった。笑顔も失せて重苦しい雰囲気を感じさせると、人はどんどん去っていく。頑張れの声も掛けづらかったのだろう。そんな私を見かねたのか、たまに先輩の佐藤さんが気晴らしに誘うことがあった。佐藤さんには独立したときから何かとお世話になっている。失敗も随分カバーしてもらった。それでも佐藤さんは「頑張れ」とか「どうした?」とか言わなかった。ただ、きょう行くか? といつものキャバクラ「ZERO」に誘った。もう通い始めて一年になる。
三回目の時、初めてはなに出会った。佐藤さんオキニいりの佳世ちゃんに連れられて初めて私の横に座った。佐藤さんは、はなをちらっと見ると、おっ新人か、いいね、と言うだけですぐにオキニに目を移した。そのあとは私にまかせると言わんばかりのにやけた顔をして水割りをぐいっとひと口飲んだ。
「はなです」
「よろしくお願します」
甘ったるく粘り気のある声だった。細く綺麗な指が膝上に丁寧に置かれていた。
「はなちゃん? いいなまえだね」と誰でも言いそうな軽い言葉をなんとか返した。
はなはじっと目を合わせ、うふふと聞こえそうで聞こえない艶めかしい口元をしていた。私は逃げるように目を逸らしたが、黒のボックスソファーにミディアムドレスのピンクが浮かび上がるように美しかった。
どんな仕事しているの、とか、いくつなの、とか初めての女の子が聞いてくるような会話は何も無い。「まだ水割りでいい?」と氷をひとつグラスに足しながら、いたずら猫が飼い主の気を引くように私の顔を何度も覗く。そのたびに隣に座る賑やかな二人の会話にそっと顔を逃がしていた。
うん、いいよと、それでもその場がとても心地よかった。

 グラスから口を離すと、唐突に「なかなかうまくいかないね」と荒い言葉を吐き出した。言った瞬間、しまった、と後悔した。せっかくの時間をまたぶち壊している。いつもこうだ。
でも、はなは「そうなの」と微笑むだけだった。
なにが、とも、どうして? とも聞かない。上等なスポンジのように汚れた言葉をすべて吸い込むようだった。そして、代わりに甘くてぬるい言葉をささやいた。
「大丈夫だからね」
艶めかしい口元がやわらかさを含み、切れ長の涼しい目を向けてそれだけ言った。
見つめられた瞳と言葉に吸い込まれそうになる。たじろいだ挙句、ありがとうと、それだけ言った。妙に畏まった礼でもなく、かといって感情溢れた、嬉しさを隠しきれない満面の笑顔の応えでもない。ただゆっくりと低い声で応えていた。
はなの甘くてぬるい言葉をいつまでも味わっていた。

 歳を重ねると月を見たくなる。昼間の太陽は強すぎる。月のやわらかさに心が落ち着くようになる。たとえば、夜中に目が覚めると、カーテンの隙間から月光が零れていた。陽の光のような強さでなく、細光を伸ばす冷静な美しさだ。魅かれて外に出れば音は無い。あるとすれば軽い耳鳴りのようなシ~ンという冷気の張りつめた気配だった。
今、そんな月のやわらかな光を躰で感じている。

彼女はそれ以上何も言わなかった。長い髪を纏めた蝶のバレッタを外す姿は、ワンセットが終わることを告げていた。いつもは延長しないと決めていたのに、このときばかりは此処にずっと留まりたかった。

 それから何回もZEROに行った。しかもひとりで行った。しかし、はなに会うことはなかった。それでも店で彼女を探さなかった。偶然を装う顔も用意していたが、あきらめも徐々に身につけていた。代わりに数回となりに座ったのが、はなに私の入院を伝えたという佐藤さんオキニの佳世ちゃんだった。



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