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はなは、最初に見舞いに来た日から毎日来ていた。(4)

どうして? と聞きたかったが、中々言い出せない。回答に対する答えも用意できない、聞いた事で来なくなるんじゃないかと、いつまでも質問を躊躇していた。だからいつも他愛のない話で終わっている。
ZEROで会ったときのようにお洒落なバレッタをしていることもない。いつも清楚なブラウスとスカート、それにパンプスを合わせていた。髪を掻き揚げる指先にドキドキすることもあったが、病室では、艶めかしさよりも透明で清潔な肌の色をしていた。

 「はな」という名前は珍しい。ZEROで見た、「はな」とひらがなで書いたネームプレートが新鮮だった。響きの可愛さも気に入った。だから一度しか会っていないのにフルネームで覚えていた。ある時、その理由を聞いたことがある。
「はなちゃんの『はな』は、ひらがななの」
「そう」
「へえ、珍しいよね」「本名なの?」
「そう」
ニコニコしているが、いつも返事は短い。

そんな彼女が、不意に自分の名前の由来を話し始めた。
ある夜、家で母親と二人でお酒を呑んでいた。酔いも手伝って、これまで疑問に思っていた自分の名前の由来を聞いたそうだ。母親の答えは簡単なひと言だった。
「わたしが大好きだったから」
特別な意味は無かった。でもその母親のひと言が嬉しかった。心地いい酔いに浸った。
「だから、名前の由来なんてわからないの」
そういうと、その場の心地良さを思い出したようにふんわり笑っていた。

漢字の花でなく、何故ひらがなの「はな」なのかと、小難しい由来を聞く準備をしていたが、もうそんなことはどうでもよかった。私も、この「はな」という名前が大好きになっている。

「そっかあ、でもそんなもんかもしれないね」と言いながら私は別のことを思っていた。

 私にも高校生になる娘がいる。待望の女の子だった。娘は、生まれた時ベッドの上で私の顔をじっと見ていた。まだ目も視えていないはずなのに。しわしわの指を私の人差し指に絡めて緩く握っていた。十か月を過ぎ、やっと外に出れたと安堵した顔をしていた。私は考えていた候補の名前を娘の顔に当てはめ、順に呼んでみた。そうしたら美羽の名前に笑った。まだ聴こえていないはずなのに。そうして名前は美羽になった。
幼稚園の年少に進むと、美羽は毎朝制服を見て泣いていた。子どもの涙顔は、どうしてこんなに切ないんだろう。可愛さを増幅させる魔物だ。赤いランドセルを毎朝見送った。あんなに背中に重く垂れ下がっていたのに、すぐに友達を軽快に追いかけていた。泣き顔が少なくなる度に何故か寂しくなっていた。もう会えない思い出なのに、娘は私の中で元気に走っている。ランドセルを背負った娘を、このまま心の中に入れて連れていきたい。

 気づいたらそんな思い出に耽る私の顔を、はなはニコニコして見ていた。恥ずかしさの余り、「そんなもんかもしれないね」と同じ言葉を繰り返した。

 はなが毎日見舞いに来るようになって二週間が過ぎていた。いつも午後二時には病室を訪れる。私もいつしか毎日の日課となり、病室の仲間や看護師も、彼女を待ち侘びているようだった。事実、彼女はこの病棟の人気者になっていた。同じ病室の仲間にも笑顔を振り撒き、気楽に話し掛けていた。看護師も「いつもの彼女は今日来るの」と、必ずはなのことを尋ねてきた。担当者は毎日違うのに、同じ質問を繰り返していた。私は少し自慢げに答えながら、はなを自分だけが独占したいという、子供のような無邪気な感情にも気づいていた。

 はなは、今日も二時過ぎに現れた。
いつものように、「どう」と声を掛けながらベッドに近づいてくる。はなが来るようになってからカーテンは開けてある。そんな自分の変化にも気づいていた。カーテンを開けた自分のスペースは、入院当初より広く明るくなっていた。
 はなは、いつも自分の話ばかりしていた。
「どう」と声を掛けた後は、病状の事は何も聞いてこない。同じ話の繰り返しになるのも確かだが、あえて避けてるようには見えない。病人を励ます為でなく、自分の話を聞いて欲しいという様子だった。毎日その為に来ているのかと思うほど、自分の毎日の暮らしを私に伝えていた。
散歩の途中、愛犬が川に落ちたこと、そしてその時愛犬の足の骨が折れて一晩中泣きながら看病したこと、居間にあった父親のパソコンの電源を無理やり落とし、勝手に落とさないで、と笑いながら怒られたこと、朝寝ぼけ眼で食事をしていて、今も母親に注意されていること。他愛もない話にいつしか私も一緒になって笑ったり怒ったりしていた。同じ病室の人も、ベッドに横たわりながら聞き耳を立ててたかもしれない。看護師も、病人の処置をしながら聞き入っていたようだ。声には出さないけど、そんなはなの話を聞いて一人笑いを堪えていたかもしれない。

 はなの話を聞きながら、私は別の風景を思い出していた。幸せな思い出を、遠い子どもの頃に置き忘れていた。

 私が小学校二年生ぐらいだったと思う。まだ蒸し暑さの残る夏の夕方、隣町の七夕祭りに父親と二人で出掛けた。二人っきりなんて滅多にない。理由は今も不明だ。母親と弟を家に残して、バイクを運転する父の背中にしがみ付いていた。向かい風に一時の涼気を楽しみ、父の汗ばんだ大きな背中の中で、空想した五色の短冊に願い事を書いていた。
この時父は何を想ってハンドルを握っていたんだろう。張り付く息子の鼓動に顔を緩め、すぐそこにあるちょっとの幸せに気づいていたんだろうか。親としての幸せに浸ったら、今度は自分が子どもに戻っていた。 

 それでも病院は人が亡くなる。
癌を患ったならば避けて通れない現実がある。
昨日、「来年の桜はもう見れない」と医師から告げられた同室の入院患者が亡くなった。急変だった。
夕食の時間になってもベッドから起き上がらない。眠ったままで大きな鼾をかいていた。回診に来た医師と看護師が、「安住さん」「安住さん!」と呼び掛けても応えることはなかった。看護師が慌ただしく病室を出入りしていた。どうやら只事では無いらしい。その物音を聞いて、同室の誰もが息を潜めていた。カーテン越しに聞こえる医師と看護師の会話は冷静で怖かった。
病人は誰よりも敏感に死を予測することが出来るらしい。同室の誰もが、もうだめだろうと感ずいていた。

 急変した患者を個室に移す様に、医師が看護師に指示していた。いよいよその時が近づいていたかもしれない。ぎしぎしとベッドが引かれて、個室に運ばれた後の空間は、代わりのベッドも置かれず、悲しいほど広々としていた。その後のことは覚えていない。何事も無かったように眠りに就いていた。入院してから、嫌な落ち着きを身に付けてしまった。

現実に呼び戻されたのは明け方近くだった。
「おとうさん」
若い女性の叫び声が聞こえた。
そして、その女性の取り乱した泣き声が、廊下を伝って病室に届いてきた。
亡くなったのか、そうか、ただそう呟くだけだった。白く薄い掛け布団を両肩が隠れるほど深く覆い、目ばかりが大きく開いていた。冷酷なものだが、「引導を渡されたよ」と寂し気な笑みを浮かべてた顔も、今は余り覚えていない。人の死に慣れてしまったのか、そんな自分を少しだけ許して欲しい。

その時から眠れなかった。考えても仕方の無いことを、天井を見ながらあれこれ考えていた。何を考えていたかと聞かれても思い出すことも出来ない。でもその時の冷静と恐怖だけは覚えている。

そんな時間を止めるように、病室の引き戸が閉められた。いつもは開けてある引き戸だが、亡くなった患者を地下の霊安室に運ぶ時は閉められる。他の病人に、死を予感させない為だろうが、もう何度もこの光景を体験している。遺体を霊安室に下すために、荷物専用のエレベーターを使う事も患者は薄々感ずいている。でも、誰もそのエレベーターの話をすることはなかった。

 癌患者が病院で死ぬとは、どういうことだろう。自宅での死は、生活感が漂う中での出来事で、何か生々しさを感じる。自分のベッドに掛けた布団も好みの色の暖かなものだったかもしれない。周囲には使い慣れた家具が並び、そこには家族の毎日の暮らしがある。消毒された病室のような匂いもしない。予期された死も、生活の中の一部として緩やかに溶け込んでいく。それと比べて、病院での死は、全てが事務的に進む。家族に看取れたとしても、入院患者の何分かの一として、死後の処理が迅速に行われる。作業が淡々と進められる中で、掛けられた白色の薄い掛け布団では寒かろうという感傷もない。寂しい気もするが、自分が居なくなった後のこと、それはそれでいい。病院を非難するつもりも無い。人が亡くなった後の作業は、淡々と進めないと悲しみの場所からいつまでも解放されることはない。医師も看護師もそのことは熟知しているのだろう。

 そう言えば、はなの歳を聞いていなかった。勿論どこに住んでいるかも聞いていない。余りあれこれ聞き出すのは、尋問している様で嫌だ。嫌われるかもしれないとも思っていた。でも、何となく解るが、正確な歳を知りたくなってきた。
「はなちゃん、いくつになるの」と思い切って聞いてみた。
「三十二だよ」
相変わらず返事は短い。
「どうして」とも聞き返さない。そうだ、はなはそんな人だった。
想像出来たとはいえ、私とは随分歳が違う。そんな彼女が何故毎日見舞いに来るのか、また聞いてみたくなった。その裏には密かに進行していた彼女への恋愛感情があるらしい。
らしいと、自分の気持ちがはっきりしない。
歳の離れたはなが、自分に恋愛感情を持っている訳が無いという否定の気持ちと、それでもそんな事もあるかもしれない、という期待の気持ちがごちゃ混ぜになっている。だからまた見舞いの理由を聞き出せなかった。

 そんな私の気持ちを察することもなく、はなはいつもの様に、自分の身の周りに起きた日常を話し始めていた。
はなの話は相変わらず楽しかった。その場の景色を思い出したのか、時折声を出して笑っていた。話しながら自分も楽しんでいる。私の身の周りにも、同じ事が起きてかもしれない。それを今、はなはひとつひとつの出来事を、宝物を扱う様に大切に話している。そんなはなの笑顔を見ていると、私は恥ずかしい。私は、彼女みたいに宝物を見つけることが出来なかった。私にも、身近なところに宝物が沢山あった筈だ。そんなことに気づけなかった。

 不思議とはなの話を聞きながらいつも自分のことばかり思い出していた。

 自分の葬式の夢をみた。葬列は静かに動いている。ラーメン屋の長い行列なら後ろの友達と笑いながら、玉になったり細くなったりして前に進むが、葬式の列はただ淡々と前に進む。話し声もあちこちから漏れてくるが、ひそひそ話は長続きせず、葬列は順調に長さを縮めていた。会社関係や友人など私の人生の総決算として面接の列が続いている。この長さが私の人生の軌跡だ。テレビで見た芸能人の葬列を想い出していた。この期に及んで葬列の長さを比べている。そんな自分を夢の中で笑ってしまった。

でも、はっとする人に出会った。
中学の同級生ナオだ。旧姓佐久間尚子。
凛として前を向いた姿は中学時代と変わらない。十年前の同窓会で逢った時もそうだった。

彼女に目が吸い寄せられた。
ナオは私の遺影をじっと見つめていた。
この眼差しに私はいつもドキドキしていた。

 中学時代、彼女が好きだった。
中学校二年生の秋だったと思う。そのころ私と彼女は、部活でブラスバンドに入っていた。朝の練習を終えて音楽室から教室に戻る渡り廊下の途中、三年生教室の開けた窓から、名曲「翼をください」が聞こえていた。三年生が歌うこの歌詞が妙に大人びて聞こえた。歳は一年しか違わないのに、憧れとも言えるような大人の雰囲気を漂わせていた。その調べの中でナオと一緒に渡り廊下を歩いていた。
ナオは人気者でいつも周りに人がいた。唯一、二人でいたのが朝練の渡り廊下だった。なのに何も起こらなかった。中学生の私は恥ずかしくて「好きだ」のひと言が言えなかった。
今日も声を掛けることができない。今なら消えた姿でもっと近づけるのに、あの頃と同じように遠くから見つめるだけだ。

それでも彼女は私を感じてくれていた。
焼香を終えた後、棺の横に立つ私をじっと見つめていた。
「この場にずっといて欲しい」、そんな願いを聞こえない声に変えて彼女に向けてたかもしれない。でもそれは無理なことだった。お互いすべては遠い昔に置いてきた。
振り切るように彼女は身体の向きを変え、葬列の流れに合流した。そんなナオの潔さも好きだった。
「これでひとつ終わった」
そう呟いたら、ちょっと前の切なさが消えていた。胸の奥でこびりついていた思い出の断片が、きれいに剥がれ溶けて無くなった。そして目が覚めた。

いつの間にか、はなに向けていた恋愛感情を忘れていた。そして点滴治療もはなが来てから、その辛さを忘れかけていた。自分が癌である事も忘れてしまいそうだ。
なんていう人だろう。こんな人に出会ったことは無かった。何も求めない、何も与えない、それでいて会う人の心を優しく溶かしていく。


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