MONO NO AWAREと坂口安吾

 私の大好きなMONO NO AWREというバンドが水戸に来る!ということで先日、水戸ライトハウスにライブを見に行った。水戸という見慣れた景色、匂い、音の中に自分の好きなバンドの演奏があるという光景にとても特別感を感じた。馴染みのある場の空気を通して音が伝わって来る感じが一体感と親しみを生んでいるというところに感動していたような気がする…。(感動しすぎて言葉にできないの!)

 MONO NO AWREの曲『東京』に次のような歌詞がある。
「ふとした瞬間に僕たちはゆりかごへ帰りたくなる」「ふるさとは帰る場所ではないんだよ」

 今までそれほど気にしていなかった歌詞だったのだが、演奏中、どこかで触れたことのある言葉のような気がした。

「故郷は我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は決してふるさとへ帰ることではないから。…」

『文学のふるさと』 坂口安吾


 これは坂口安吾の『文学のふるさと』の一文である。これは文学作品に対して安吾自身が解説や考察を加えながら、自身の考える「ふるさと」とは何か、「文学」とは何かについて言及している作品である。正直、私の浅い知識と思考力では理解ができなかった。できたとしてもそれを文字に起こしたら言葉足らずになってしまうような気がするので、安吾の『堕落論』にならってみずきの『ふるさと論』にしようと思う。

 私は感傷に浸りやすいタイプな気がする。懐かしさや思い出を乗り越えるのはかなり大変で、物事に手をつけられなくなったり、先に進むことができなくなったりする。その感傷から抜け出せられば楽に事が進むのにな。といつも思う。

『文学のふるさと』を読んで、そのような感傷から抜け出すためには故郷は帰る場所ではないという捉え方は重要であり、意味のあることだと私は思った。
 感傷に浸って立ち止まったり、嘆いたりするよりも、あの頃の自分とは違う今の自分と向き合って、掘り下げることをした方が確実に面白いのではないか。それは新たな故郷を、生きる場を見つけ出すことなのだろう。
 故郷は郷愁に浸る場ではなく、今の自分と向き合う場、行為なのではないだろうか。だから、故郷は帰る場所ではないし、帰れない、帰ったところでどうしようもないのだ。

 小さい頃に行った遊園地や動物園にいってみたのだが、今の私には信じられないくらい小さかった。もしかしたらあの時溺れた海も、今の私にとっては思い出に浸るには浅すぎるかもしれない。今の自分と向き合うことによって、見つけ出した新たな故郷に道を作って行けたら、と思う。

日本のロックシーンにおいて「東京」と冠された名曲はたくさんあって、どの曲も違う視点から東京が描かれていて…。「人の数だけ東京はある!」って考えるとかなり面白いです。「東京」の聴き比べを是非してほしいです。

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