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ウンゲツィーファ『リビング・ダイニング・キッチン』

《Documenting》20230914
ウンゲツィーファ『リビング・ダイニング・キッチン』
於:アトリエ春風舎
(2023年9月14日・20時の回を観覧)

 作・演出を務める本橋龍の育児経験をもとにした作品だという。とてもいい芝居だと思った。

 アクティングスペースにはごく一般的なLDKの部屋が再現されており、キッチンやソファやテーブルといった家具の他に、子供の玩具やさまざまな植物がそこかしこに置かれている。ここで暮らす夫婦の赤ん坊は、甲高い泣き声を発するBluetoothスピーカーで代理されている。えんえんと泣くこのスピーカーを役者たちは抱き上げあやし寝かしつけようとするわけだ。嬰児のほとんど唯一の表現方法は泣くことであり、子育てをする親がもっとも悩まされるものもこの泣き声だということを考えると、これは一種の代理表象あるいは換喩としてうまく機能しているのかもしれない。他にも、登場人物が持つ携帯から流れる音楽(役者が演技する空間から発される「オン」の音)や、劇場のスピーカーが発する音(演技空間の外から聞こえる「オフ」の音)といった数種の音響を使い分けていたのが印象的だった。

 登場人物は、子育てに疲れ切って言い争いばかりしている夫婦と、演劇をやっている夫の兄という3人。病院かなんらかの施設に入所しているらしい兄弟の父親を遠景に置き、過去や未来を行き来しながら物語は進んでいく。ときに観葉植物の置かれたリビングが森になったり、夫婦の前に80歳になった息子が現れたりと、フィクショナルに時空間をジャンプする表現は非常に演劇的だが、描かれているテーマは生々しい。核家族における夫婦の育児負担の配分、子を社会に出すまでの経済的負担、出産・育児によって奪われる女性のキャリア、そもそも演劇などやっていては子供を持つことすらかなわない現実、それでも産めよ産めよと生政治を押し付けてくる政府……。

 こうした問題の根源はひとえに、GDPで測られる社会的生産活動にのみ目を向け、その生産活動を支える家事・育児・余暇活動といった社会的再生産を、我々を含む社会全体が等閑に付してきたことにあるだろう(ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』)。そんなことも考えさせつつ、ラストはやっと眠ったと思った赤ん坊がまた泣き出し、3人の大人が慌てふためくというコミカルなシーンで幕を閉じる。

 この日のアフタートークに登壇した九龍ジョーは、このラストを指して「いろんなこと(問題)があっても、子供がいると子供に向き合うしかない」と前向きな捉え方をしていた。子育てに現代特有の問題があるならば、その原因を取り除けるのが一番いいのだが、その力も余裕もない凡庸な市民がそれでも子供を育てていくのならば、それぞれの事情は棚上げしてでも子供中心に生きるしかないということ――それは希望とも言えるのではないか。シングルマザーとして仕事をしながら子供を育てた漫画家の東村アキコは、「子育ては死ぬほど忙しいけど、終わってみれば、あんなに楽しかった時間はない」とたびたび語っている(YouTubeチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」等)。経済的にも時間的にも余裕を奪われ、夫婦仲に亀裂が入ったとしても、とりあえず目の前にケアするべき命があるということは、生きる力になるはずだ。こんな風に想像することは子を持たない私の楽観だろうか。

 委細は知らないが、本橋は今現在も幼い子を育てながらこの戯曲を書き、演出しているようだ。実際の彼の家庭では、夫の本橋が演劇に従事し、妻が経済的な柱になっているという。本作に登場する家事・育児を担う妻、外で働く夫、演劇をやっている貧乏な兄という3者は、この本橋の生きる環境を最小限で表した人物配置である。その意味で本作はドキュメンタリー的な趣もあり、作家が自分の境遇に正直に向き合っているという迫力を感じさせる。ラストの解決に至る過程はわかりにくい、というより筋としてやや弱いように感じたが、それでも現実のままならさを棚上げし、こうして明るいラストを描けるということもまた、演劇をすることの希望なのではないかと思った。

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