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木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

《Day Critique》145

木ノ下歌舞伎
『桜姫東文章』
@あうるすぽっと

 毎回異なる演出家とタッグを組み、珠玉の歌舞伎演目を現代にリブートさせている木ノ下歌舞伎。今回は脚本・演出に岡田利規を迎え、四代目鶴屋南北の『桜姫東文章』を上演する。

 まずは幕が上がった直後から大音量で流れるレゲエに度肝を抜かれるが、岡田演出らしい発話と身体表現があいまって、しばらくするとその強烈な様式美がクセになってくる。特に歌舞伎の見栄や殺陣を再構築した本作の身体表現には、目の離せないキモさがある。脱力した生気のない動きはゾンビ的とも宇宙人的とも言え、何かぶよぶよした未知の生物を見ているような気にさえなった。初期チェルフィッチュでは、身体のノイズを抽出・拡大するというモダニズム的手法で新たな美を提示したが、近年の岡田演出作はもはやこうしたノイズからも離れ、非人間的・非自然的なムーヴへと向かっているように見える。間の抜けたサイレンのような電子音で表現された赤ん坊の鳴き声も、こうした印象を強めていた。

 当日パンフレットの中で岡田は「『桜姫東文章』を現代演劇にすることの今日的な意味」の答えを自分は持っていないし、それは最後まで見つからないかもしれない、と書いている。一方、「個人的なor今どきの批評性みたいなの」を避けるように心がけたものの、そうした批評性が少ないながらも出ている部分がある、とも。そのわずかながらに表出した岡田の批評性とは、ずばり女性という存在に向けた視線である。『桜姫東文章』の主人公とも言うべき桜姫は、名家の生まれながらもお家が没落し、犯され、非人になり、女郎に堕ちる。江戸末期のこの戯曲のストーリーに触れるとき、我々がどうしてもとまどってしまうのはその女性の扱い方である。この物語の中で桜姫がこうむる過酷な仕打ちは、お家騒動や濡れ事、幽霊譚といったさまざまな要素のひとつでしかなく、物語を展開させ・役者の技量を見せるための函数として要請されている感がある。そして岡田はこの原作を現代口語に翻訳するにあたって、「セックスを迫る」だとか「死ぬかヤラせるか」「出ました、人(女)をもののように扱う」といったセリフをポンと投げ込んだ。岡田らしい率直な表現で、虐げられる女の存在をクローズアップしているのだ。

 昨年秋にも、ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場という劇団が東京芸術劇場で『桜姫東文章』を上演している(題名は『スカーレット・プリンセス』)。同劇団版では、桜姫など女の登場人物を男性俳優が、男の登場人物を女性俳優が演じるという驚くべき仕掛けが試みられていた。だが顔を白塗りにして幼児のように飛び跳ねる役者たちの姿は、クロスジェンダーというよりノンジェンダーに見えたものだ。実際、桜姫役の男優の贅肉が一切ない体は、少女とも少年ともつかない中性性を帯びていた。そんな彼らの舞台で一番大きくクローズアップされていたのは、お家騒動とその背景にある江戸期日本人の倫理観だ。ラスト、虚空の舞台を見つめる鎧武者の亡霊の姿は、彼らが解釈したこの戯曲の核を表象している。ルーマニアの人々にとって、極東の古い物語に描かれるサムライの倫理観は、神話のように不可思議で怪しく、祝祭的に見えただろう。だが日本人にとって『桜姫東文章』は、神話のように遠い世界ではない。現代日本につながる風俗や倫理を生きた人々の物語を、岡田が自分の問題意識に引きつけて演出したのはごく自然なことだと言える。

 岡田利規は、2021年にオペラ初演出作品として『夕鶴』を手掛けている。民話「鶴の恩返し」を題材にしたこのオペラについて、岡田は「わたしの物語であり、あなたの物語です」とコメントしている。さらには「『夕鶴』が現代の物語になります」とも。その岡田利規版『夕鶴』で、もっとも「今日的」であり「批評性」が込められたシーンは、クライマックスに続く主人公・つうの退場シーンだった。つうが夫に正体を見られ空に帰っていく際、岡田版では下手に設けられたセットの壁をつうが派手に蹴り破って退場していくのだ。ここには、虐げられた女の怒りと、それを舞台上から観客に突きつけんとする岡田の強い意図が現れていた。

 こうした批評を避けたはずの『桜姫東文章』の中でも、「死ぬかヤラせるか」だとか「人(女)をもののように扱う」といったセリフが印象に残る形で置かれているのは、上述したとおりである。そして3時間を超える舞台の最後に発される「ハレルヤ!」というセリフは、批評というよりもはや作家からのメッセージと言っていいだろう。桜姫が、不運のすべての元凶であるお家の家宝を投げ捨てた際、大向うの掛け声を模して晴れやかに発されるこの「ハレルヤ!」という声は、女への祝福だ。

 男性である岡田の作る女性演劇を、男性である私がこうして評することは、男性性の再生産であるというそしりを免れないかもしれない。だが、フリーターや社会の弱者をテーマに取り上げてきた岡田が、『桜姫東文章』の演出において虐げられた存在としての女性を大きく取り上げたことは、私にはとても納得ができるのだった。

(2023年2月9日記)

※トップ画像は木ノ下歌舞伎公式HPより転載


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