見出し画像

遥か江戸へと思いを馳せた

越後屋呉服店は3つのイノベーションで繁盛した。江戸時代の話だ。

まずは関連する2つのイノベーションから。

第一に、商いの原点をとらえ直した。つまり、手元現金が何より大事という原点だ。

第二に、顧客のインタレストを細分化、いまで言うマイクロ・インタレストに向き合い、便宜を図った。結果、顧客を創造した。

まず、第一の現金。

当時の商いは、基本、掛け売りだった。顧客は高級幕臣や諸大名の家に商人が出向く御用聞きスタイル。

掛け売りをして、代金回収は大晦日。つまり、資金繰り的には、水面スレスレな商いなわけです。しかも、そういった「美味しい」商売は当然参入者が増えるため、過当競争になって、無意味な顧客争奪戦が繰り広げられた。

顧客とはいえ、相手は武士だ。たかが知れている。しかも、時代が進むにつれ、武士はどんどん貧乏になっていったから、業界全体は縮小した。それでも、「昨日の続き」をやりたい商売人はいつの世もマジョリティなので、やってた。

年に一回の年末代金回収書き入れ(書き入れ時、という言葉はここからきている)というスタイルが危なっかしいのは変わらない。

江戸は武士の町として成立したけれど、その後人口がどんどん増え、では彼らの職業は何かというと、職人、屋台で寿司を売るなどの飲食店、など、いわゆるサービス業だった。

越後屋は彼ら庶民を相手にした。間口の広い店舗を構え、お客様、来てください、とした。顧客を創造したのだ。

それまで、店の姿勢は、「お得意様にはお安く、一見さんには高く」。
「商品の値段がいくらかわからない」のが当たり前だった。

それをやめた。

「値札がついております。どなたさまにも同じ定価でございます」

「ただし現金決済のみでお願い申し上げます」

高額な反物などの「物体を売る」ではなく、「庶民の買いやすさ」という「顧客接点を売りにする」イノベーションを産んだ。

顧客接点として、彼らが欲しい「小さいもの」(反物全部ではなく、欲しいサイズに切る)、あるいは小物、あるいは「急にお殿様にお呼ばれした。礼服がない!」という若手侍に「スピード即日仕上げ」を提供した。

ひょっとすると職人向けの作業服も提供し、江戸版ワークマン的な働きもしたのかもしれない。

注目したいのが、「現金決済のみ」。多少値引きしても、キャッシュが入る。大晦日の一日だけが収入の日だったのが、「毎日が収入日」へと変わった。資金繰りが助かることは言うまでもない。

そしてこの豊富な資金を元手に、越後屋は次のイノベーションを手掛ける。

3つめのイノベーションは、両替商。

当時の日本では、東が金貨、西が銀貨を基軸通貨としていた。ややっこしいが、そうだった。

越後屋は呉服を京都西陣から仕入れる。決済は銀貨だ。そこで、京都にも店を出した。銀貨で受け取り、銀貨で仕入れる。

江戸幕府は、西の大名たちから税金として年貢米や産物を納めさせていた。大坂城に貯めた。

それらを売って得た銀貨を金貨に換えて、江戸まで数十日かけて現金輸送していた。しかしながら、これはいまのようにオンライン、スマホ画面で簡単に済むわけではなく、何しろ現物の金貨を運ぶわけだ。道中危険だし、何が起こるかわからない。

越後屋はこの「幕府の不便」に目をつけた。今も昔も「不便」の解消はビジネスイノベーションの種だ。

幕府に提案した。

「ご公金を私どもで両替させていただけませんか。大坂御用金蔵から公金を私ども三井両替店が銀貨で受け取り、2~5カ月後に江戸城に金貨で納めさせていただきます」

幕府としてはとても助かる。もちろん、
イエスだ。

そして、三井両替店としても、大いに助かる。なぜなら、幕府から預かった銀貨はそのまま西で運用すればいい。江戸の店は金貨で決済している。幕府にはその金貨を納めればいい。「両替」とはいえ、何のエクスチェンジもしていない。

通勤途上にザ・キタハマ・タワーがある。

ここは昔、三越百貨店大阪支店のあった場所だ。三越の「三」は三井の「三」。「越」は越後屋から。

レトロ作品を上映する映画館もあって、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』を観た。たしか旭化成社員時代だ。

キタハマタワーから真っ直ぐ南へ歩いて350歩だから350メートル、およそ3分にJOYWOWの入っているビルがある。

JOYWOWの窓から東を見た。

大坂城が見える。

越後屋のイノベーションは、城のエリア内にあったことから生まれたのかもしれないと、遥か江戸へと思いを馳せた。イノベーションのにおいがした。

この記事が参加している募集

マーケティングの仕事

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?