扉が開くとき

本当にあった怖いかもしれない話をしましょう。

––––これは昔、僕が学生時代だったときの話です。
入学直後のある日の通学中、新しい環境でのストレスもあってか電車の中で急に腹痛に襲われたのです。
どうにか学校の最寄り駅まで我慢できたので、電車が到着するやいなや急いで駅構内の男子トイレへと向かいました。

トイレには個室が3つあり、覗いてみるとだいたいどこのトイレもそうですが手前の2つが和式トイレです。
しかし僕は和式トイレが苦手でした。
そして…一番奥の洋式トイレは既に誰かが入っているのです…。

待とう。僕はそう考えました。
しかしこのままでは遅刻してしまう。
頭の中ではハイスピードで用を足すシミュレーションが始まります。
どのようにしてズボンとパンツを下ろし、いかにして排泄し、数多ある手順の中の最も合理的な手法を取り、その一連の流れを合算して最短時間(単位:秒)を割り出すのです。
トイレに入ってから出るまでの全ての手順を綿密にシミュレートしていきます。

この思考はとても密度が濃かった。
なぜならとても大切なことだからです。
どうして大切かというと、入学してすぐに「遅刻・オブ・トイレット」の称号を授与されるわけにはいかないからです。

しかしもう既に何分も経過しています。
本当に個室の中に人がいるのだろうか?
そのような怪奇な疑問が僕を襲いました。それは八○子○○○野駅のトイレ全体を襲っていたかもしれません。

よく耳をすませると、服ずれの音が聞こえます。

…いるのです。
確実に。

それが分かると少しは焦りが抑えられますが、まだ油断はできません。
水が流れる音が聞こえるまでは…。

シミュレーション上では水が流れる音がわずか 1Tick 聞こえた段階で手元でズボンのベルトを緩めます。
そう、もうおわかりかと思いますが、音速は 340.29m/s です。
つまり実際には 1Tick 聞こえた段階でベルトを緩めるのでは遅いのです…!
心を無にして先読みしなければなりません。
もちろん最後に聞こえるのは扉が開く音。個室の鍵を開ける際の 670Hz 付近の周波数は、僕に至福のドーパミンを与えてくれるでしょう。これは僕の脳内エリート高学歴官僚達が最善を尽くして高度な計算を行なった結果得られた正しい理論なのです。
…とまあ、シミュレーションの話はもう良いでしょう。このまま書きつづけるときっと読むのに72分ほどかかります。

怖い話なんてきっとないんです。

最初に言いましたが、手前の2つの個室は和式トイレです。
しかし和式トイレは苦手です。色々とつらいのです。
僕はすっかり"固執"していました。
トイレの"様式"に…。

………。

静寂があたかも時の流れが止まったような感覚に陥れます。

もしかして、この世界線には僕と"彼"しかいないのではないでしょうか?

そう思ったその時です。水の流れる音が聞こえてきました。
その僅か1秒前には手が自然とベルトを緩め始めていました!
そして、670Hz …!
鍵が解除され、個室の扉が開くのです!

これは奇跡が起きるかもしれない。
世界最速トイレット、無遅刻、健康的な一日、ストレスのない学校生活、バラ色の人生!

ベルトを緩めた状態で、一歩、また一歩と前進します。
スローモーション映像を想像して下さい。

扉がゆっくりと開き、中からバトンを持った彼が姿を見せるのです。
白馬に跨っていた王子が、とうとうその座を僕に明け渡すのです。

…出てきた彼の姿は、小太りの脂汗をかいた中年サラリーマンでした。
しかしそんなものは僕の思考のノイズにすらなりません。
この便意からようやく解放される…。
この世界線からようやく解放される…。
彼と僕しかいないこの静寂に包まれた世界線から…。

––––そして僕は個室の扉を開けました。

しかしその瞬間、あまりの恐怖と絶望と衝撃によって僕は放心状態になりました。

………。

………。

………。

なんとそこも和式だったのです。

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