境界線
最近は、90年代のドラマに入り浸っている。
『GTO』に『ロングバケーション』、今は『ラブジェネレーション』を観ているところ。
友人とも話していたんだけど、今よりもずっと90年代を生きていたほうが楽しいと思ってしまう自分がいる(フィクションの世界だから、本当の90年代はどんな感じか知らない)。
自分の両親も90年代に結婚しているわけだし、昔のこととか聞いてみたい気もする。
しかし、親のなれそめなんて聞いている自分が恥ずかしくなりそうで聞くことはないだろう。
バブルが崩壊して、世の中に不安が募っていた時期だとしても、人とのつながりは今よりも強固な感じがものすごくした。
多分「コンプライアンス」とか「世間」というものの枠組みがもう少し緩かった時代なんだと思う。『不適切にもほどがある!』でも、そういったところをテーマに掲げていた。その時代らしさを大切にしたらいいんじゃない?みたいな終わり方でとらえていたけど、その中には、他者との境界線に関する話題が多かった。言い換えれば、「自分らしさ」を尊重しましょうという感じ。それはものすごくわかる。
けれど、僕は他者との境界線が複雑になりすぎていると感じる。そして、不確かな境界線もたくさんある。そんな世の中で、僕は素直になることがものすごく難しいのではと思うのだ。第三者が熟成した境界線は、「でもさ」「どうせ」というひねくれを熟成しているのではと思うのだ。
それに葛藤している毎日で、就活でも自分の過去を振り返り、「言語化」という張りぼての要素を拾い集める作業をしているように感じる。とある企業のメンターさんと何回も面談しているけれど、正直賽の河原にいるような感じがする。
「こういうことだと思います!」も「もう少し明確にしてみよう!」と崩されてしまう。意味のある努力だと思っても、後々振り返ると無意味な努力と思ってしまう。それよりは、根拠のない自信で突っ走っていた12月~1月の自分のほうが、今の自分より魅力的だと思ってしまうのだ。
いろんな本を読んで、これをやっとけばいい!という就活のやり方は、僕にはあっていない(ちゃんといろんな本や就活のメンターさんが提示した課題をやったうえでの答えです)。
結局、素直な気持ちになれるのは、心を許した人たちからの言葉なのかもしれない。そして自分の心と対話し、向き合い続けることだけだと思っている。その答えを導き出す手段に答えを求めてはいけないのだ。
モヤモヤの中で、過去に書いた文に目を通す。
大学時代に悩んでいることの延長線が今であると思うから。
パソコンで作業する日々で、過去に書いたショートショートを読み返す。
これって確か、自分が求める教育の在り方を、物語に込めていたはず。
今までの経験や知識、技術を駆使しても、心の底から素直になれる社会は実現しない。当の昔に、答えを出しているじゃんと思ってしまった。けれど、過去の自分が思っていたことに、救われることもあるんだなと、少し勇気が出た。
もう一度、就活のビジョンに対して向き合ってみる。
「誰かのために」に対して「誰ってどういう人なんだろう」と悩んでいる自分がいた。「生きづらさを抱えている人」だなんて、どういう人か?と言われても、「場合による」なのだ。だって境界線が多いから。
でも結論は出ている
「誰かのために」は「自分のことを好きで信頼してくれている人たちのために」なのだ。
斉藤和義さんの『やさしくなりたい』とか、UVERworldさんの『One stroke for freedom』とかのように、今まで出会った人たちが幸せになることに挑戦するが、僕の掲げる「誰かのために」だ。「生きづらさを抱えている人」も、僕を信頼してくれている人たちに100%で向き合うことが重要なのだ。「好きな人のため」に境界線は存在しないのだ。
それを、「児童・生徒」とか「〇〇に悩んでいる人」とか、僕は決めたくない。「誰に・何を・どのように」は、「ご縁のある方に・その人が求めるものを・寄り添い共創する」なのだから。
境界線がいけないわけではない。
境界線があっても、強くつながりあえる世の中にしたい。
「好き」や「信頼」が僕にとって挑戦すべきカギなのだ。
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