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感動の源泉は何処

現実という砂漠の中で、感動というオアシスを探している自分がいる。
ああ、死ねるほどの感動を浴びたい。
心が感情ではじけるほどの感動を摂取したい。
頭がどうにかなりそうなほどの感動を吸い尽くしたい。

…。
感動依存症なのだろうか。
そういうわけじゃない。
感動はそう簡単に手に入らないから、
想定内で必然的なものではないから、
魅力的で宝物のようなものだから。

手に入れたいし、生み出したいと強く想っている。
ちょっぴりわがままな自分がいるのだ。

ドラマや映画、読書にゲーム。
それだけでは足りない。
自分という人間で、いや、大好きな場所、大好きな人たちと作り上げてみたいという欲望で満ち溢れている。

感動を「したい」のではなく「成し遂げたい」のだ。

年末年始以前までは、世の中を斜に構える自分がいて。
将来に不安や疑問しか持てない自分がいて。
そのせいで、人間関係や自分の望む人生がうまくいっていなかった。
ただ単に、こうあればいいのに、こういうことがしたいと思うだけで諦めていた自分が、将来に希望をもっているのは不思議である。

それは間違いなく、いろいろな機会や人たちに出会い、自分に希望を持てたからである。
その人たちのために、そしてこれから出会う人たちのためにも何かを成し遂げたいと強く想うことができた。
そこには、感動の源泉があったのだ。
何事も諦めず、苦悩に向き合い続けることができたから。
色々な感情でぐちゃぐちゃになることで、情熱を持ち自分に自信を持つことができたのだ。

しかし感動の源泉はそう長くは存在しない。
いつかは干からびてしまう刹那的で繊細なものである。

卒業式、試合、大切な人との時間。挙げればきりがない。
それは諸行無常なのである。

だからこそ、次の感動の源泉を探す旅にでなければいけない。
次はどこで、だれと、どんな時に見つかるのか。
予定には入れることのできない楽しみがそこにはある。

話は変わる。つい最近も感動体験をしてきた。
先日、いぶすき菜の花マラソンに参加した時のことだ。
ランナーとしてではなくて、マネージャーとして。
鹿児島県民であるにも関わらず、今まで一回も参加したことが無かったのだ。

外野から「いや参加してねーだろ」というヤジが聞こえる。
いやみなさん落ち着いてください。このマラソンに関わっている皆さんが参加者だと思うんですよ。
ランナー以外に、大会の運営やボランティアの方々。ランナーの家族に友人、恋人。地元住民の方々。スポンサーの企業さん。皆が参加者の大会だったと思うんです。

その参加者全員が、様々な形で感動を生み出していたからこそ、参加者だと思っている。
成し遂げたい目標、誰かのために想った行動、場所や時間を創り出す人たち。
もっといろんな要素があったかもしれない。それが入り混じったからこそ感動が生まれたのである。
そして、このどれかを間違いなく参加者全員が持っていたに違いない。

僕もマネージャーとして、友人とその彼女の送迎や荷物持ち、応援をさせていただいた。大好きなカップルだからこそ、この二人のために何かをしたいと思ったのだ。

そんな僕は勝手ながら、自分が「ベストマネージャー賞受賞者」だと思っていた。
けれども友人の恋人が言うに、
「老人ホームから応援してくれたおじいちゃんおばあちゃんが一番感動した」ということなので、その賞は受賞できませんでした。笑
けれど、友人からは賞を頂いたので満足です。

感動の源泉はふとしたところにあるようで、いろんな人にとって違う所にあるらしい。
ということは、感動の源泉はいたるところにあるってことで、しぜんと感動の温泉につかっていたのかもしれない。
物理的にも、感情的にも、素晴らしい温泉街である指宿市は僕が大好きな鹿児島の一部でもある。

それは鹿児島県民である僕の誇りになった。

また日常に戻る。
就活、研究、就活、研究。現実からはそう簡単に逃げられない。
それでも僕は感動を探しに、過酷な旅でも諦めず追い求めていたいと思ってしまう。
というより、本当に追い求めたくなると、その旅でさえも楽しくかけがえのないものになるはずだ。

死ぬまで感動の源泉を探し続けていきたい。

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