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「とにかくアイディアを100個出せ」と言われるのが嫌いな理由

最近フォローし始めた Hirokazu Odaさんの下記のノートを見て、「あ〜『100個アイディア出せ』って言われるの嫌だったなぁ〜!」としみじみ思い出した。

特に、わたしがマーケティングを専攻した大学院の主任教授の研究分野が Creative Thinking だったので、彼のクラスではことあるごとに「100でも200でも1000でもアイディアを出せ」としょっちゅう言われていて、わたしはそれが本当に嫌だった。

どうしてこんなに「またそれかよ…嫌んなっちゃうなぁ」と感じるのか、当時も考えてはいたけれども、その時点ではもやもやした感情ばかりが溢れていて、言語化することがなかなかできなかった。

Odaさんのノートを読んで、数日かけて自分の経験や信条と合わせて考えてみると、こういう点が納得いかないんだな・非現実的なんだなという論理が見えてきたので、それをここに書きたいと思う。自分が思うことを文章にしてみて、そしてまたOdaさんのノートを改めて読んでみると、結局違う言葉で似たことを言っているような感じになってしまったけれども、せっかくたどり着いた自分の考えは書き残したいと思ったので、半分は自分のために書いていく。


まず、なぜ「とにかくアイディアを100個出せ」と言われるのが嫌なのか、理由はふたつある。

ひとつ目は「限られた時間/締め切り」という概念がそこから抜け落ちているから。仕事でも学校の課題でも、大体のものには締め切りがある。たとえば仕事でブレインストーミングをして、様々な基本アイディアが50個ほどは出たけれども、提案内容をブラッシュアップしてクライアントにプレゼンする期日、もしくは納品までの工程を考えると、そろそろ今あるアイディアからさらに発展させる案を絞っていかなければいけない…という状況はよくあると思う。

でもそんな時に「まだアイディア100個出てないじゃん」なんて言う人(冒頭の教授だ…)がいたりしたら、わたしは内心で「はぁ?」とメンチを切っていると思う。笑

締め切りいつだかわかってます?企画提案にだって準備が必要なの知ってますか?それにどれくらい時間かかるかわかって言ってます? 納品のためのブラッシュアップ作業だって必要なんですよ?そういうの全部一瞬でできるって思ってませんか?できませんからね?と喧嘩を売りたくなるのを、必死で抑えることくらいしかできない。笑

そりゃ、50番目のアイディアより100番目のアイディアのほうがいいものになるかもしれないし、「時間ないのでもう考えるの止めます」というわけでは決してない。むしろ逆で、最後の最後まで「もっと良くする方法はないか」「何か他にいいアイディアないか」とあがき続けていることのほうがずっと多い。

だけども、たとえ100番目のアイディアが価値としては100点で、50番目のアイディアが80点くらいだったとしても、100番目のアイディアを出した時点で締め切りを過ぎていたら、それは0点なんです。

もしくは、たとえば100番目のアイディアを締め切りギリギリに思いついたとして、それをブラッシュアップする時間なく、まるで「その場の思いつきをただ口に出した」みたいな内容をクライアントに提出するよりも、50番目のアイディアを魅力的に提案するストーリーテリング・プレゼンテーションを行うことで、他の人のクリエイティビティを刺激し、新しいアイディアが生み出され、それを取り入れながら最終的なアイディアの価値がもっと上がっていく可能性だってある。

だいたい「100番目のアイディアがそれ以前の99個のアイディアより必ず優れている」っていう保証もないしね!「必ず」優れているんならアイディアいくらでも永遠に出し続けるわ。いつだって、その場その場での時間リソース、人員リソース、能力リソースで出来るベストをやるしかない。

冒頭に述べた件の教授は「自分自身がクリエイティブなアイディアマン」というよりは「そういうクリエイティブな人たちを外側から観察している人」というタイプのようだ。そのため、こうしたアイディア出しの方法論に関して理想を振りかざしがちになり、クリエイティブなアイディアを出す・出し続けることの苦しさを身をもって理解はしていないような気がするので、彼の発言が現実味のないものになってしまうんだろう。


「とにかく100個アイディア出せ」と言われるのが嫌な理由。ふたつ目に、わたし自身が「とにかく数出しゃいいってわけじゃないだろ」と思っているから。

上記のOdaさんのノートで言われている「発散」に相当するDivergent Thinkingの段階では、出てきたアイディアに価値があるかどうかは考えない。とにかくアイディアを出し続ける。そこで取捨選択のジャッジを入れてしまうと「最初は大したことないように思えたアイディアも、さらに発展させたり他のアイディアと融合させたら良いものになった」という可能性の芽を潰してしまうかもしれないから。とにかくしょうもない思いつきでもいいのでブレインストーミングし続ける。

だけどここでわたしが気をつけたいと思っているのは「数がありゃいいというわけではない」ということだ。

ひとつ例を出すと、たとえば「雨の日に出かけるのが嫌な人への解決策」という課題があったとして、「とにかく100個アイディアを出しゃいい」と思っていたら「雨の日に必要なものは傘だ。いろんな傘のデザインを考えよう!」となり、星形やらハート型やら有名デザイナーやブランドとのコラボなどなど…そうこうしているうちにアイディアの数は100ほどにはなるだろう。

もちろん「持っているのが嬉しくなる/楽しくなる傘」という提案も大事なアイディアなので否定はしない。だけどわたしは何にしても課題のそもそもから考えたくなる性格なので「なんで雨の日に出かけないといけないのかな?」「雨の日に出かけると何が嫌なのかな?」というところからたぶん始める。

出かけないといけない理由が買い物や食事だったらいろいろな宅配サービスを提案することもできるし、日にちが決まっていて事前にチケットを買うようなイベントに雨でも行く場合には車での送迎サービスも提案できる。雨の日に出かけると靴がぐしょ濡れになるのが嫌(わたしです) & TPO的に長靴を履いていけないのだったら、防水加工でかつファッション性の高い靴を開発できないか?という発想も出せる。

マーケティングを勉強し始めてから"Thinking outside the box" という言い回しをよく聞くようになった。これは「思いもよらないアイディアを生み出す思考」ということなのだとわたしは解釈している。

傘というアイテムにとらわれ、見た目だけ手を替え品を替えて100案出すよりも、問題の根本から問いかけ、具体的なシチュエーションをイメージする想像力を働かせたほうが、Thinking outside the box により近づけるのではないか、と思っている。

余談だけども、わたしのいた大学院プログラムは学部課程からストレートで修士課程に来た若い人たちが多かったせいか、それともアメリカ人らしい思考回路なのか、上記のたとえ話で言うところの「雨=傘!」という発想に飛びつきがちな人が多く、わたしの「そもそも問題の根本はどこなのか考えようよ」といった思考回路とスピード感はあまり馴染まなかった…。まぁしょせん学校の課題にすぎないし、時間にも限りがあったから別にいいんだけど…。


本当に大事なことは「100個アイディアを出すこと」ではなく「問題に対して考えうるベストの解決策を提案すること」だとわたしは信じている。

だから冒頭の教授が学生たちに向かって本当に言うべきだった言葉は「100個アイディア出せ」ではなく「柔軟に考えることを自分に許すこと、課題の根本から問いかけること」であり、その先にあるステップとして初めて「その問題を解決できるベストのアイディアを考え抜け、取捨選択せずに様々な角度から考え続けろ」と言えるのだと思う。

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