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ブックレビュー「トヨタ中国の怪物 豊田章男を社長にした男」

本書はノンフィクションを多く手掛けている児玉博が書き下ろした作品。過去著者が手掛けたものには堤清二、宇野康秀、西田厚聰、國重惇史など名の知れた財界人のものが多いが、本書は一般的には知られていない服部悦雄を描いたものだ。

タイトルは「中国の怪物」と潜在読者の目を惹くものになっているが、内容の前半は服部氏が27歳まで滞在した中国での悲惨な経験を綴り、後半は運よく日本に帰国し、偶然入社したトヨタで伝説の名社長奥田碩の下、さらには豊田章男に全面的に中国戦略をまかされたサクセスストーリーが描かれており、それだけを読むと「中国の怪物」というタイトルが本当に似つかわしいかどうか疑問に思う。

服部自らが中国での27年間の経験と知識を存分にトヨタのビジネスに発揮する後半に比べると、前半の中国での悲惨な生活は凄まじいとしか言いようが無い。

毛沢東と中国共産党部の狂気とも言える独裁政治。共産党批判を歓迎したかと思うと手のひらを返して反革命分子として弾圧、無謀な大躍進運動、製鉄・製鋼運動、雀撲滅運動、その結果起きた大飢饉。一旦、劉少奇、鄧小平が経済再建を試みるも、文化大革命で毛沢東が失地回復を狙い、劉少奇と鄧小平を打倒、さらには軍を背景に毛沢東から権力を奪取しようとした林彪や、イデオロギー闘争という面を強調する四人組などが登場し中国は混迷を続けた。

この間、中国人からは日本人として差別を受けた服部は、学力こそが唯一の生きる希望と信じ、零下20度、極寒のハルビンで悲惨な生活をつづけながら優秀な成績を維持するが、日本人であり共産党員で無いことから北京大学や精華大学への入学は許されず、屈辱の中かろうじて東北林学院に入学。5年間の大学生活はそれなりに安定したものであったが、文化大革命の影響で、卒業後は強制労働が命じられ、再び悲惨な生活に戻る。

2年間の強制労働を終え、ハルビンに帰った服部は、偶然同じ日本人の酒井拓夫に会い、日本へ帰国する公のルートがあることを知る。強制労働時代の夢が開けた服部は、長年帰国を良しとしなかった父親を説得、ついに1970年に家族と共に日本へ帰国する。服部を支援した酒井は後に山崎豊子の「大地の子」のモデルの一人である。

帰国した服部は、当時外務省次席事務官だった加藤紘一の世話でトヨタ自動車販売に入社、1972年からは豪亜部の一員となる。がむしゃらに働いた服部は、1979年にフィリピンへの島流しから奇跡的に本社豪亜部部長に復帰した奥田碩に重用され頭角を現す。

一方トヨタは中国への支援開始こそ早かったが、1980年代は米国との貿易摩擦にリソースを割いたため、中国進出が欧州勢や他の日本勢と比べても遅れてしまう。かろうじて96年に提携した天津汽車には部品メーカーとしての屈辱的な扱いを受けていたが、その天津汽車は不良品在庫を積み上げる経営と粉飾決算を続け、調査の結果不良債権2,000億円が発覚するなど実質破綻状態に陥る。

97年に社内政治の影響で一旦中国から外されていた服部だが、奥田の策略で中国を担当することとなった創業家の豊田章男支援のために復帰、わずか一年余りの水面下での動きで、第一汽車による天津汽車の買収とトヨタの第一汽車との提携に成功、トヨタはフルラインナップの乗用車生産にこぎつける。

このウルトラCの実現により中国のトヨタは一気に活気づき、服部とともに中国を開拓した豊田章男は副社長に昇進、創業家出身社長への道が開けた。

中国には「好死不如赖活」という中国人の本質を語る言葉がある。「きれいに死ぬよりも、惨めに生きたほうがまし」と言う意味で、中国人は日本人のように切腹とか桜が散るみたいに潔く死ぬなどとは考えない。

服部は27年間の悲惨な中国生活で身に染みて理解したこの中国人の本性を中国でのトヨタのビジネスに最大限活用した。

しかし中国人には日本人として差別され、日本人には中国人であるとして足を引っ張られ、先のウルトラCを現実のものとしたにも関わらず、豊田章一郎に約束された役員への道は反故にされた。

70歳を迎えた服部は北京市民になるための手続きをするが、結局認可は下りず、トヨタ中国事務所は頑なに推薦を拒み、結局日本に戻ることになる。

本書のサブタイトルである「中国の怪物」は、独断的な行動をとる服部を煙たがり、服部の創業家との関係を嫉妬していた日本人たちが与えたニックネームと思われる。

服部を重用した奥田が創業家による経営を嫌い、トヨタの歴史から抹消されたのと同様、おそらく服部もトヨタの中国史に残ることは無いのだろう。


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