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朝日新聞 徳川家康の富士の歌

初投稿。今日の朝日新聞の、ピーターJなんちゃらさんの、日本の文学を英語で読もうというコーナーから。(自分なりの意見らしきものがでるように努力はしますが、まとまらないかもしれない)

「富士の山 みねの雪こそ時しらね 落つる木の葉の秋は見えけり」

徳川家康
みなさんこの歌は知ってました?というか歌の意味わかります?
ピーターさんの解説載せときます。
”この家康の歌は、引用文だから新聞に投書するのか迷ったけど、家康は眼の前の富士と伊勢物語の世界を融合させる文才を表しているのでこの歌を選びました。まさに文武両道の人だ”

といった感じの解説をしなさっていましたね。僕は素人なんで、なるほどねと「自分の世界と伊勢物語の世界の融合かあ 頭いいな」と感心しましたね
{伊勢物語 東下りの章
「ときしらぬ 山は富士の嶺(ね)いつとてか 鹿の子(かのこ)まだらに雪のふるらむ」}

えーここで先に結論、じぶんが何を考えたのかというと、、、この徳川家康の歌は、歌としても味を保ちながら、世の真理も同時に歌ってますよね。富士は時季知らず(いつも雪をまとっていいる)だが、木の葉が秋を語っているのだと、、、

つまりやっぱり、日本の歌には僅か数文字でも普遍性を唄える機能があるのではと今日思いました。

決して当人は真理を歌っているつもりではないし、ハッキリと「こうだ!」と断言しているのでもなければ、ただ自然の描写から「世はこういうものよ」という普遍性をなんとなく悟っている。これは日本の古典の文体のすごいところですよね。でも、こういう論調ってきっとあらゆる方面から語られ尽くしてますよね。
今回の投書のみそはここからです。
キーとなるのは、日本人がこういう文体(スタイル)をどうしてもっていたのか?という考察です。
結論
、からいうと日本人はヨーロッパの一元論的な思考形態ではなく、複雑であいまいな思考形態をもっているからでしょう。
科学って、「こうではないか」という仮説を立てその点に集中し専らそれに取り組んだ結果えられた成果、「やっぱりこうだからこうだ」という結論にい落ち着く。「これはこうではないか」という一元論的な思考が端を発しえられた結果論。西洋の思考形態は仮説を立てある点に対しての特殊性の強い答えを出すのが得意です。
西洋文化が入り込む前の、科学がない時代の日本は、むしろ結果から「ああこうなら、こうなのね」とのんびり、ざっくりと物事を理解しようとする思考形態が得意です。これって結論なんて曖昧でいいという意味で科学と逆のことしてるじゃないですか。一元論的に「これはこうあるべきだ。だってこれにはこう書いてあるんだから」という感じで思考を始めていては、のんびりと歌をよむなんて苦手そうですよね。西洋哲学的にいえば、日本人は帰納的、西洋は演繹的なんでしょうか。でもそれよりも物事を一元論からはじめて考えているか、複雑に答えなんかわからないしわかったところで対して実際には役立つかもわからないんだという思考形態の違いがあるんだと思いました。

答えを探そうとするとき西洋のやり方は効率がいいですが、答えを出すのに焦らなくていいときは紙にいろんな視点を書き出してなんとなくまとめていくほうが自分にはあってます。

ピーターさんはこの家康の文章について、伊勢物語の引用歌なので果たして新聞に投書するのかを迷ってたとおっしゃてましたね。

家康や日本の治世者は比較的、文武両方で世界を見ていたんだと思います。武とはリアリズム的であり、文とは理想の世界、、少なくとも二つの視点から二元的にものを捉えるのことで深みのある思考を持てるようになるのかもしれません。

余談としては、今日の大河ドラマ、ついにあと2回、どうなるんでしょうか、たしか先週は大阪冬の陣で大阪城に西洋の大砲をぶちこんで、森崎ウィンさんに「こんなのおかしいよ戦じゃないよもうやめてくれ親父ーー」と泣きながらいわれ、対して松潤「これが戦じゃ」と哲学な一言で一蹴しましたね。確かに、大砲をぶちこむのは一騎打ちでの命の取り合いとは全く違う。命の取り合いの生臭さとは比較にならないほどの無機質さとでもいうべきか、、、
現代のミサイルなど、人の命を情報としてしか扱っていないというのもなにかの記事でめにしたような、、、)


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