阪神淡路大震災を振り返って(1)

22年前。
色々忘れる前に、ついに書いておこうと思う。

2011年の甲子園で、創志学園1年生、
野山主将の選手宣誓に嗚咽した。
(全文はこちら

正直、震災の話を平常心で語るのに3年かかった。

当時はまだ、ネットも携帯も
若者のライフスタイルには
広く組み込まれていなかった。

当日、私は爆睡していた。
1度目の揺れは夢の中、
2度目の揺れで目が覚めた。

起き上がろうとしたが、動けない。
頭上で電気の傘が大きく左右に揺れていた。
あらゆる物が私の布団の上にあった。
金縛りではないことに気づいた。

なんとか布団からはい出し、
戸建ての2階から階下に降りた。

家族が居たはずだった家には誰も居なかった。

ありとあらゆる物が壊れ溢れている中を
何とか玄関までたどり着き、
パジャマのままで外へ出た。

近所の人達が集まっていた。

まさに出勤する所だったのだろう
スーツにビジネスバックを持った近所の方が
「靴を履いて上着を着なさい」と指示してくれた。

状況を把握していない私は
言われるままに家の中に戻り
壊れた物で溢れかえる中から
靴と上着をどうにか探し、身につけた。

この指示のおかげで足に怪我をおわず、
防寒する事が出来た。
大事が起こった時に冷静な人が
近くに居てくれた事に心から感謝した。

別の近所の方から
母が飛び出して逃げたので、
それを父と姉が追いかけていると聞いた。

少し離れた所に放心状態の妹が居た。
妹は煙草に火をつけようとしていた。
私はあわてて妹の口から煙草を奪い取った。

外はガスの匂いがしており、
シューシューとガス漏れしている音も聞こえた。
煙草に火をつければ簡単に爆発しそうだった。

私はその事を妹に熱弁した。
今考えると、妹なりに落ち着こうとしていたのかもしれない。
(ちなみに当時、妹は相当やんちゃでしたw)

暫く近所の人達で固まって話をしていた。
ある人がラジオを持って来てくれた。
あまり情報はなかったが、皆で耳を澄まして聞いた。

明るくなって、改めて周りを見回すと
別世界だった。
映画のセットの中に入り込んだようだった。
現実味がまるで無かった。
恐いとも思わなかった。

一筋向こうは全壊だった。
うちの近所は半壊だった。
「断層」と言う言葉を初めて知った。

近所に住む友人が気になり、
様子を見に行った。
家は全壊していた。

号泣していたら、そこに住む友人家族が
車に乗り込むところに出くわした。
「お父さんの会社の寮に移動するねん」と
友人は言った。震災当日の行動だ。

この友人家族がクレバーだった事を思い出した。
この家族のその後については別途書く事にする。

近所の人達はとりあえず自宅に居た。
昼頃、母と父と姉が家に戻って来た。

とりあえず座れる場所を確保する為、片付けた。
1階の1部屋に家族5人で座って寝た。

いつでも逃げられるよう靴を履き、上着を着たまま寝ていた。
横になって寝る発想はなかった。

横になって寝られない事に
即、母が音を上げたため、
避難所に行く事になった。

家族で避難所に行くも、私と妹には無理だった。
妹は大阪の友人の家に転がり込み、
私は半壊の自宅に残った。
母と姉は避難所で過ごし、父は避難所と自宅を行き来した。

長くなるので、いったん、ここで締める。
続き(2)はまた。

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