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日本人が消えるとき

 斎藤成也著『DNAから見た日本人』(ちくま新書)の最終章は、『「日本人」が消えるとき』という衝撃的なタイトルとなっている。

 すぐにどうのこうのという話ではない。1000年後ぐらいのスパンで見たときに、「日本人」という日本語を話し、日本文化を維持している人種がいるかどうかということを推測している。

 もう一つ、衝撃的な事実がある。『日本民族学会』が2004年に『日本文化人類学会』と名を改めたこと。20世紀に盛んにおこなわれ、非常に人気の高かった学問の看板である『民俗学』ということばが、学会の冠からはずれたのだ。この事実は、研究対象となる独自文化や伝統的生活様式・社会形態をもつ希少民族の数が激減していることを物語っている。

 ぼくらが生まれるずっと前、そう人類が地球上に生まれて、アフリカという場所から世界中に移動し始めた頃に戻ってみよう。このころに人類は、どうやって、世界中へ広がっていったのだろうか?想像の世界でしかないが、おそらく、徒歩もしくは草木を使った舟といったものが移動手段だったはずだ。

 今のように、飛行機や鉄道といった文明の利器を利用した移動とは、ほど遠く、その移動速度は、非常に遅かったはずだ。だからこそ、進化の速度と人類が世界へ拡散していく速度があい、いろいろな人種が生まれていったのだろう。移動した土地になじみ、そこの気候や風土になじむために進化する。そんな進化のスピードと移動速度がちょうど一致した時期だったのかもしれない。

 今、ぼくらは、移動するために、当たりまえのように電車を利用し、飛行機に乗る。飛行機が飛び立つときと着陸するときに、少し緊張して汗をかくことはあるかもしれないが、それ以外はまったく気にせずに文明の利器を使って移動する。

 日本国内であれば、ほぼ日帰りで移動できる環境が整っている。そんな環境だからこそ、見知らぬ土地に移動して移り住み、その土地に適合していくなどということは、少なくなっているのではないだろうか。

 まして、生活水準が向上していくと、移住環境は、画一化していき、進化を生み出すほどの多様性がなくなっていく。そんな風に考えていくと、人という人種は、多様性よりも画一化の方向に進化していくのかもしれない。

 例えば、移動が安易なので、それぞれの国どうしを行き来することが容易になり、交流も盛んになる。そうなれば、国際結婚が一般的になって、人種を気にすることなく交じりあっていく。やがて、民族というものそのものがなくなっていき、日本人という民族もなくなっていく。そんな未来が成り立つのではないだろうか。

 これがいいことなのか、わるいことなのかはわからないが、一つの過程として成り立つような気もする。

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