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神保町・お茶の水①

 多摩と呼ばれる東京郊外で育った僕にとって、子どものころに憧れていた場所がある。それは、古本の王国『神保町』だ。僕が住んでいたところからだと、西武池袋線で池袋に出て、そこから、山手線で新宿を通り、中央線に乗り換えてお茶の水で降りる。後は、徒歩5分ほどで到着する。

 あこがれの場所というのは、大人になった今のようにいつでも電車に乗れる環境ではなかったので、そんな簡単には行けない場所だったという意味合いもある。

 電車で移動するということが、ほとんどなかった小学生高学年から中学性のころ、僕たちの足といえば、自転車だった。だから、移動できるテリトリーは、それほど広くない。

 あのころ、昭和45年から50年ぐらいにかけては、今のように大規模なショッピングモールなどなく、家以外での僕たちの居場所は、近くにある商店街と団地にある公園、そして学校といった所だった。

 小学校の低学年のころは、おもちゃ屋さんが、やはり子どもにはあこがれの場所だった。おもちゃ屋に行ったからといって、何かが買えるわけでもないが、そこにいるだけで幸せな気持ちになれた。今にして思えば、おもちゃ屋さんにとっては迷惑な話だが……。

 小学校の高学年になって、本を読むようになってからは、あこがれの場所がおもちゃ屋から本屋さんへと移った。商店街にあった小さな本屋さんに、放課後に寄るのがひとつの楽しみだった。ただ、この頃はまだ本が買える身分ではなく、本屋に立ち寄っても、ただ、立ち読みするだけだった。

 団地に隣接する本屋さんの主力製品は、雑紙だ。予約して定期的に雑紙を買っていく人や店の人が、主なお客さんだった。文庫本や単行本などは、ほとんど売れないので主力製品ではない。

 しかし、子どものころの僕には、文庫本のひとつである新潮文庫が、主力製品じゃないのに、店のど真ん中にデンと鎮座しているように見えていた。

 この頃、岩波文庫は大きな本屋さんへ行かないと置いてなかった。まして、角川文庫や講談社文庫は、まだあまり勢力が強くなかったのか、小さな本屋さんの本棚では、端の方に少しあるだけだった。圧倒的に多かったのは、やはり新潮文庫だった。

 新潮文庫には、栞の紐がついている。これもあこがれのひとつだった。栞の紐があるだけでなんだか高級なイメージがした。

 学校の帰りに本屋さんに寄る理由が、もう一つあった。岩波書店の月刊誌『図書』をもらうことだ。当時、『図書』は、確か1冊10円だったと思う。しかし、本屋さんへ行くと『ご自由にお持ち下さい」と書かれたポップがあり、ただで、もらってくることが出来た。

 この『図書』という雑紙は、岩波の新刊を宣伝するための雑紙だ。岩波書店が発行する本は専門的なものが多く、『図書』に掲載されている記事は、正直いって内容が難しく、掲載記事の半分も理解できなかった。でも、その頃の僕は、いくつかの紀行文や連載されているエッセイを読むだけで大人になった気分を味わっていたのだと思う。

 この頃、マンガはまだ市民権を得られていなかった。週刊で発行される少年マンガ雑紙や少女マンガ雑紙こそ、ポピュラーだったが、小学校には、マンガは置かれておらず、少年たちが漫画本を手にできるのは、町の床屋さんでの待ち時間ぐらいしかなかった。必然的にマンガを読む機会は少なかった。マンガを読むという習慣が今でもないのは、この子どものころの環境が影響しているのかもしれない。

 マンガを読まない理由のもう一つは、マンガが基本的に普通の本よりも高いと思ってしまったところにある。誰でもそうだったと思うが、子どものころのお小遣いは有限だ。当然、その使い道は、お菓子やジュース以外では、なるべく長く使えるものに限られる。

 そこで、マンガだ。マンガの単行本を1冊買ったとする。それを読み終えるのに、子どもでもおそらく数時間しかかからない。同じ価格の文庫本を買ったとする。こちらは、おそらく読み終えるのに数日かかる。同じ価格でも長い時間楽しめるのは、文庫本の方だと思ってしまっていたのだ。

 何度も読み返せば同じじゃないかと思われるかもしれないが、そこは、子どもの発想だ。そう思ってしまったのだからしょうがない。その影響もあって、マンガを読むという習慣は定着しなかった。

 大学生だった一時期、暇つぶしでよく喫茶店でマンガを読んだが、社会人になった途端その習慣もなくなってしまった。だから、僕にとってマンガとは、1990年頃に流行っていためぞん一刻とかシティーハンターなどの一部のものしかわからない。

 話が、どんどん離れていって、本来の目的地である神保町へなかなかたどり着かない。話が長くなってしまったので、この続きは、次回にしたいと思う。

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