小説 VS. 映画

 小説への「予感」

 先日、今更ながら石田衣良さんの『娼年』を読んだ。名作だということはもちろん知っていた。しかし、性描写がすごい小説だということで、大学生の頃からなんとなく避けてきた小説の一つだった。

 図書館で本を選んでいる時、古本屋で購入する本を物色している時、本屋で新刊本を買うついでになんとなく近くの棚の本を選んでいる時、様々な場面でなんとなく目に入ってくる本がある。「これはいつか読むことになるだろうな」という予感だったり、「名作だろうな」という予感であったり、本によって多少の相違はある。しかし、共通しているのは、実際に後日何らかのきっかけで読むことになり、たとえ名作でなかったとしても、自分の中に何らかの影響を及ぼす本であることがほとんどである。

 私にとって『娼年』はまさにそのような小説の一つだった。覚えている限りでは、初めて気になった時から7、8年は読んでいないという点では最長記録かもしれない。しかし、見かけるたびに装丁から窺えるその小説の毒々しさ、タイトルから匂う内容の生々しさを無意識に感じ取っていたのかもしれない。

 おそらく、その段階の私には、小説の持つ力に立ち向かうだけの勇気がなかったのだ。

 そのように長らく避けてきた『娼年』を読み終わった私は、やはり動揺した。自分が無意識化に感じていた、「この本は自分に必要だ」という感覚がやはり当たっていたことへの満足感を感じる。同時に、良い小説を読んだ後に誰もが感じる充足感を得た。

 読み終わって数日後、『娼年』のことがどんどん頭の片隅に追いやられていく中で、ふとhuluで検索してみると、映画版が出ていることを知った。新型肺炎の流行で退屈凌ぎに契約したhuluであったが、小説が好きなものは多くが映画とも親和性が高いのだろう。私はすっかり映画鑑賞に夢中になっていた。

 映画『娼年』を観て真っ先に驚いたことは、主役を松坂桃李が務めていたことだ。R指定がつくような映画は、あまり世に知られていない役者たちによって、ひっそりと作成されるものだというひどく勝手な印象が頭の中にあった。

 次に、小説に可能な限り忠実に作られている点にも驚かされた。また、その忠実さは、ただ小説をなぞっていくのではない。文章ではその他と並列にシリアスな場面の一つとして描かれていた、放尿により快感を感じる女性の挿話を笑いどころとして描く点に、監督の工夫を感じた。私は映画も小説も評価をできるような立場ではないが、一人の鑑賞者としてどちらの作品も非常に楽しめた。

それぞれの世界の自由度

 小説の好きな点は、全ての情景に加え、登場人物の心情までが文章によって紡がれていく点である。我々は、通常の人生を過ごす中で、他人の心の内を正確に知ることはできない。可能なのは、相手の表情や態度、言葉や相手との関係性から、推測するのみである。我々が知っている他者は、全て私たち自身がその経験によって積み重ねてきたイメージの集合に過ぎない。もしかしたら、自分自身でさえも。

 しかし、小説では少なくとも主人公の気持ちに関して描写されたものに嘘はない。三人称の小説であれば、主人公以外の登場人物の感情が詳細に描かれたものもあるだろう。著者を信じる限り、一人称の小説であっても主人公が感じる他者の感情は本物だと言えるだろう。

 一方、映画では登場人物の気持ちが言語化されることはない。稀にナレーションが入ることはあるかもしれないが、そのほとんどは演者の表現力に委ねられる。そして、我々は俳優や女優の表情は何気ない仕草から推定される心情の動揺を読み取り、それぞれに解釈するのだ。

 つまり、映画の方がストーリーの持つ意味や、登場人物の感情についてより想像の余地がある。ある意味では、鑑賞者による創造の余地があると言い換えても良いかもしれない。この予知のことを解釈の誤りと述べる人もいるかもしれない。しかし、大筋をはずさない限りこの余地は許容されるべきだと思う。監督や俳優をはじめ、映画に関わる多くの人が、正しい解釈など求めていないと信じたい。物語が我々の人生の「もしかしたら」の一つとして作られている限り、物語は自由であるべきだ。

 小説は、ストーリーについて全て書かれているため、作者がわざと考察の余地を残している場合を除き、そこに解釈の違いは生まれないだろう。しかし、小説の世界は、映画よりもより自由だ。登場人物の容姿、周囲の建造物、自然の情景、物語を形作る世界自体が、読者の想像に委ねられるからだ。小説を読むことを好む人は、少なからずこの自由な世界に逃避している部分があると思う。少なくとも私自身はそうだ。

小説 VS. 映画

 近年、読書人口が減少している、活字が読めない子供が増えたなど、出版業界の未来を憂う報道が数多くなされている。これは、単純にネットでの検索や掲示板、動画配信サービスなど様々な娯楽が増え、読書に時間を割く人口が単純に減っただけだと思う。

 小説を読むことには一定の集中力が必要だ。それは、先程も述べたように、著者が描いたその世界を自分で創造し直す作業が必要だからである。一方、映画は深く考えなくても一応のストーリーは追うことができるし、家事の片手間に流し見することもできる。YouTuberなどの動画では尚更だ。より楽な方が選択されるのは、むしろ自然なことなのかもしれない。

 ただ、出版物に関わる仕事をしている者としては、やはり出版物に触れる人や時間に増えて欲しいと思う。小説の世界と映画の世界は、全く別の想像の楽しみがある。読書に慣れている人は本を読んでから同じ映画を見る方が世界の創造がより楽しめるだろう。読書に慣れていない人は、映画を観てから小説を読むなど、少し創造のハードルを下げることで、世界の創造が楽しめると思う。

 小説と映画はどちらも素晴らしい。私の中では小説がやや優勢だが、引き分けとしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?