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ナチズムの現実と「もうひとつの現実」 池田浩士を参考に

 池田浩士はドイツ文学をはじめ、天皇制、ナチズムといったファシズムにおける文化、また現代文明論や死刑廃止論など、多岐に渡り論じている人である。1968年から2004年まで京都大学に、2004年から2013年まで京都精華大学に在職。現在も講演や執筆を精力的に行なっている。
 僕は精華大学に入学して池田氏に出会い、卒業後も彼の主催する「ロマン的なるもの研究会」という読書会に参加してきた。ただ、池田氏の著書については、学生時代に一度読み始めたものの難しくて挫折してしまい、以来ほとんど読まずにいた。
 しかし今年の半ばを過ぎたころ、池田氏を師と仰ぐ友人からひとつの本について教えてもらい、もう一度読み始めた。そこでとても大きな感銘を受け、彼の本を次々に読むようになった。そして、せっかく読んでいるのだから、一度文章としてまとめておいたほうがいいのでは? と思ったのである。

 池田氏の本を読んでいると、「自発性」「いまある現実とは別の現実」といった二つのワードが頻出する。一体それはどういうことなのか。今回は『ボランティアとファシズム』『虚構のナチズム』の二つの著書を参考にしながら、ナチス体制下におけるドイツを主題にその言葉が意味するものを書いていきたい。
 これは池田氏の著書への考察というよりは、この半年間ほど読んできたものを自分なりに整理したいという意味合いが強い。さらにこれからも読み進めていく上で、とっ散らかったメモ書きよりは、一旦文章としてまとめておくほうが良いと思った。
 じゃあなぜわざわざそれを発表するかというと、この文章を読んでくださる方がいらっしゃるとして、ではこの池田浩士という人の書いたものは一体どういう点で重要なのか。それが僕たちの生活にどう関わっているのか、そしてそこにはどういった歴史とそこに生きる人びとがいたのか。そういったことを稚拙な文章でも、少しでも伝えたいと思ったからである。



1.
 2019年に刊行された池田浩士『ボランティアとファシズム 自発性と社会貢献の近現代史』では国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)政権下のドイツと、天皇を唯一の主権者とした大日本帝国の歴史を、ボランティア、つまり自発的な意思によって行なわれる無償の社会事業という文脈で論じている。
 言わずと知れたナチスの最高指導者、「総統」のアドルフ・ヒトラーは1933年1月30日に政権を獲得した。そして政策を進めるにあたって、まず労働、とりわけ肉体労働(ブルーカラー)の重要性を説き、ホワイトカラーの労働との社会的差別をなくそうとした。
 そのために活用されたのが、ヴァイマル共和国時代に世界大恐慌によって引き起こされた壊滅的な失業状況への対策として始まった「自発的労働奉仕」という制度である。本来のそれよりもかなり低い賃金によって、ひとまず失業者に対して職を与える。それによって得られた利潤で、企業は正規の労働者を雇う余裕ができる。そのサイクルで失業率の改善を図るのである。ナチスはこれを弱小政党だった頃から重要視し、街の失業者を積極的に連れ出していき支持者を増やした。
 最初は生活保護を受けている者だけが対象だったが、後に拡大され、学生などの青年層も自発的に参加できるようになった。これは後述する「帝国労働奉仕」制度に繋がってくる。
 この制度をアウトバーンに代表される公共事業において大いに活用するとともに、自発的に失業者への募金を街頭で集めたり、日々の食費を節約し寄付へ回すといったことを呼びかける「冬季救援事業」によって、ナチスは急速に失業率の解消を成功させていった。
 いま自発的に、と2回書いたが、ナチスはその意識を国民に植え付けることを何よりも重要視していた。そもそも彼らナチスという集団自体が、ボランティアという言葉のもうひとつの意味である「義勇軍団(フライコール)」を元に結成されたのである。
 1918年11月、第一次大戦で疲弊したドイツ帝国に、キール軍港を発端とした革命の嵐が巻き起こった。11月9日、ついに首都ベルリンにまで波及し皇帝が退位、共和国樹立が宣言される。ドイツ革命、または十一月革命と呼ばれるこの闘争によって大戦は終結へと向かい革命政府が発足するのだが、争いが途絶えたわけではなかった。バイエルン州の首都ミュンヘンでは革命政府に異を唱える者が新たに革命を起こし、バイエルン=レーテ共和国を打ち立てた。
 バイエルンはじめ、各地で起こったいくつかの新たな革命勢力を鎮圧するために政府より派遣されたのが、大戦後の革命で行き場を失い、自発的に集まった右翼国粋主義者たちによる反革命の「エーアハルト旅団」「フライコール・エップ」といった義勇軍団であった。この他にも大小いくつもあった義勇軍団はその後、軍縮を定めたヴェルサイユ条約によって解散させられたが、「秘密結社」としてカモフラージュしながら多くは生き残った。


 (ドイツ革命については池田浩士『ドイツ革命 帝国の崩壊からヒトラーの登場まで』に詳しい。)

 また、もうひとつのボランティアとして「アルタマーネン」という集団も現れた。彼らは都会を離れ自ら農地へ赴き「自然へ帰れ」のスローガンのもと、低賃金で農家を手伝いあるいは独立し共同体を作った。
 同時期に起こったボーイスカウトやワンダーフォーゲルにも似た、若者たちによる何の変哲もない活動に思えるが、そこにはある思惑があった。彼らは繁忙期になるとやって来るポーランドからの出稼ぎ労働者たちの「侵入」を防ぐことを目的としていたのである。それはアルタマーネンの理念として掲げていた。彼らにとって外からやって来る者はドイツ民族の「血と土」を汚す異物でしかなかった。もちろん不況によって仕事を"奪われている"という感覚もあっただろう。アルタマーネンとは祖国ドイツを守るため自ら壁となったのだった。
 こういった愛国的な集団に、後にナチスの重要なポストを担うことになる者たちが多く参加していたのである。彼らはその起源から、自発的に祖国へ奉仕する体験を持ち、そしてその重要性を知っていた。彼らは自分たちの国を揺るがす存在を排除するために活動を開始していたのである。
 そして、ヒトラーが労働を賛美し、労働者間の差別をなくそうとした本当の狙いもそこにある、と池田氏は指摘する。
 ナチスをはじめとする、ユダヤ人への強い差別意識を持つ者らには、第一次大戦の敗戦を国内の「アカ」どもの裏切りによるもの、すなわちドイツが負けたのは戦争での力負けなどではないとする説が根強くあった。アカとはマルクス主義者でありユダヤ人である、と。
 事実革命勢力や政府の中にユダヤ人は少なくなかったが、敗戦自体は長びく戦争によって資源も財源も底をつき厭戦気分が広がっていたというのが実状である。
 しかし彼らはその「十一月の裏切り」を党の理念の中心に打ち立てた。そしてヒトラーの労働差別への取り組みはマルクス主義の理念である階級闘争、つまり資本家と労働者という対立をなくし、革命の芽を一掃するためのものだったのである。
 ヒトラーの思惑は見事にはまった。先述した「冬季救援事業」さらに「自発的労働奉仕」を一定期間全ての青年層に義務化した「帝国労働奉仕」は、国家に莫大な利益をもたらした。同時に、肉体労働に対する差別意識の排除と社会的平等の意識を根付かせた。また、ボランティア精神の根本的な部分、困っている他者を助けるという善意、それによって社会を全員で作り上げていくという「連帯感」や「充実感」を青年たちに与えた。労働組合は解体させられ、代わりに「ドイツ労働戦線」への加入が義務付けられた。そこで労働者たちは自発的に職場に貢献する意欲を高められる様々な企画を施された。
 ……と、こうして書くと、まるでいいことばかりのように見える。実際『ボランティアとファシズム』で挙げられている具体例のいくつかを見ていくと、これはいいじゃないかと思えるものもある。職場での貢献度に応じて様々な特典がもらえ、果ては豪華客船の海外旅行まで連れて行ってもらえる「歓喜力行団」。当時は手の届かなかった自家用車を、毎月給料から積み立てることで安価に購入できる「歓喜力行車」こと「国民の車(フォルクスワーゲン)」。労働奉仕や救援事業も、自分が損することになったとしても、差別をなくしたり困っている人を助けられるならいいのでは、とすら思える。
 だが、その「正しさ」を肯定することは、同時にもうひとつの現実を見過ごすことでもあったのである。
 「自発的労働奉仕」による事業として有名な高速道路「アウトバーン」は1939年9月1日の第二次大戦のポーランド侵攻に大いに役立てられた。ナチスはアウトバーンの建設時に軍事目的の使用を明記していた。その上で若者たちは労働に自ら携わった。「冬季救援事業」で集められた善意の寄付金は発表された額よりもかなり多かったという。その差分が何に使われたかは定かでないが、本来の目的であったとは考えにくいだろう。自家用車の計画は開戦と共にどこかへ消し飛び、車の購入どころか積み立て金すら返ってこなかった。そして、労働組合の解体とはつまり、賃金や待遇の改善といった、自分たちで考え交渉するための権利を放棄させられるということを意味していた。
 これらの現実が意味するのは、要するに、全てが戦争への道筋だったということである。労働も善意も夢も喜びも、あらゆるものが国家への貢献へと繋がり、やがて義務へと変わっていった。そして何より、その義務へ参加しない者、参加すら許されなかった者たちの排除も同時に進んでいたのである。
 「帝国労働奉仕」が制定されたのは1935年だが、この年はヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を本格化するための「兵役法」、反ユダヤを決定づけ形にした「ニュルンベルク法」が制定された年でもあった。若者たちは労働奉仕を終えるとすぐさま兵役へと進められた。ユダヤ人たちは市民としての一切の権利を剥奪され、そしてその排除はゲットーへの隔離、強制収容所、絶滅収容所へと展開していく。
 ヒトラーの推し進めた労働奉仕は急務の課題であった失業状況を解消してみせた。だが、労働奉仕を含めたあらゆる政策で蓄積した資本によって、戦争が起こされた。労働者たちが戦場に駆り出されていくことで、とうとう失業どころか人手が足りなくなってしまった。その労働力不足を補ったのは、占領した国の出稼ぎ外国人、戦争捕虜、そしてヒトラーが最も侮蔑するユダヤ人だった。その意味を、池田氏はこう書く。


ヒトラーが肉体労働者に対する侮蔑を非難し、肉体労働の神聖を説いたのは、労働そのものと労働者に対する敬意や共感からではなく、労働力を確保し増強するために過ぎなかったのである。強制収容所は、そしてやがてそれらに追加される絶滅収容所は、このことを如実に物語っている *1


 国によって喚起される自発性。そんな矛盾のような言葉が、ドイツの、「第三帝国」の現実であった。ほとんどの人々は、昨日まで隣に住んでいた人が消えていくという、もうひとつの現実を知っていても、深く考えようとはしなかった。ましてや、それに反対し闘おうとする考えなどごく一部を除いて、持ちようがなかった。
 政権掌握直後の1933年3月23日、有名な「全権委任法」が強行採択された。これは立法府たる国会から権力を剥奪し、政府が法律の制定、条約の締結、予算の編成を全て決めることができ、しかもそれは憲法に違反することができる。要するにやりたい放題ということである。これによって労働奉仕も兵役も、そしてニュルンベルク法も何の支障もなく作ることができた。その頃には民衆は、声を上げることなどなくなっていた。
 戦争をやめさせ、自分たちの国は自分たちで作り、誰とどういう風に生きていくか。1918年からわずか15年で人々はその自発性を捨て去った。その代わりに、国家の用意した舞台の上で、喜び勇んで踊っていたのである。



2.

  1945年5月8日、ドイツは連合軍に無条件降伏した。爆撃と戦闘によって壊滅した首都ベルリンの写真や映像は、その悲惨さとそこに生きていた民衆の絶望を物語る。
 ところが、そんな体験を経たにも関わらず、「あの時代はよかった」とするドイツ人は少なからず存在したと『虚構のナチズム』の中で池田氏は言う。
「あの時代」とはナチス政権下の、1933年から45年までのうちの前半部分、33年から39年までを指す。1951年に西ドイツで行われた世論調査を紹介しながら、人々にとってのナチスのイメージは悲惨な戦争体験や虐殺行為よりも、前章で述べたような失業率の解消、「歓喜力行団」などの政策によるプラスの方へ寄っていたことを『虚構のナチズム』は示す。たとえそれが崩壊に至る戦争への準備であり、「歓喜力行車」のようにただ金を持っていかれるだけの結果になったとしてもである。
 池田氏は『虚構のナチズム』においてナチズムの「政治・社会体制そのものが、大きな虚構でしかなかった」と書く。ナチズムの虚構、それはデマゴギーやでっち上げという意味でもあり、文化・芸術でもある。そしてその虚構は、それを支持する人々にとって「現実以上に現実的な力を持っていた」。
 『虚構のナチズム』では、その時代の文化、表現の面から人々は「日常」の中で何をナチスから与えられ感じていたのか、そしてその「日常」とはどのような土台の上に成り立っていたのかを描き出す。ここでもやはり「自発性」と「もうひとつの現実」はキーワードとなっていく。

 よく知られている通り、ナチスは政権獲得後、ヨーゼフ・ゲッベルスを大臣とした「国民啓発・宣伝省」を設置し、テレビやラジオ、映画など全てのメディアを統括した。
 また、「帝国文化院」「帝国著作院」も設立され、同時に「帝国文化院法」が制定。全ての作家と芸術家はその著作院に属さなければならず、「母なる大地」に根ざさない表現、つまりドイツの民族と国家の意にそぐわないようなものは排撃された。具体的にはダダイズム、立体派、未来派といった芸術表現、そしてユダヤ人作家の作品である。そういったものは「頽廃芸術」とされ破棄または売却、あるいは密かにナチ党幹部のコレクションとなった。
 1933年にはこれも有名な「焚書」が各都市の大学で行われた。「国民社会主義者ドイツ学生連盟」の主導によりマルクス、トーマス・マン、ハインリヒ・マン、エーリッヒ・ケストナー、ベルトルト・ブレヒトなどの多くの著作が焼かれた。このため、多くの作家が亡命を余儀なくされた。
 前提として、ナチスドイツにおけるの文化とはこのような状況の下に置かれていた。では、具体的にそこではどのような文化が営まれていたのだろうか。


 前章において述べた「十一月の裏切り」説は、ナチズムにとってなくてはならない出発点であり、ユダヤ人および共産主義者たちを排撃するべき「根拠」だった。そしてそれは、第一次大戦の敗戦という屈辱とその意味を国民に問い直し自覚させるものとして最も強力な武器となったのである。
 その「十一月の裏切り」を流布させるのに貢献した表現が、ヴァイマル共和国時代の戦争体験文学である。といってもそれは有名な『西部戦線異状なし』を始めとした「反戦文学」ではない。それらよりも圧倒的に部数を伸ばし多くの人々に読まれたのが戦場で勇敢に闘う兵士たちの姿を描き、戦争を肯定的に捉えた作品群だったのである。池田氏はまずそのような土壌を指摘する。
 そして、そういった戦争文学作家たちの中でも「おそらくその右に出るものがないくらい生粋のナチス作家」として取り上げられるのがハンス・ツェーバーラインである。
 第一次大戦に西部戦線で前線兵士として活躍した後、反革命義勇軍団のひとつ「フライコール・エップ」に参加しミュンヘンでの革命を鎮圧するなど、徹底的な国粋主義者だった。1921年にナチ党へ入党し突撃隊(SA)として積極的に活動するなど党初期からの貢献者だったこの人物は、1931年に小説『ドイツへの信念』を刊行、ヒトラーが序文を寄せたこともあり大ベストセラーとなる。
 『ドイツへの信念』はツェーバーラインの従軍体験を元にした小説であり、そのほとんどが具体的かつ肉体的な戦闘描写によって構成されている。その中で注目されるべき点は、戦場での悲惨な場面や恐怖、さらに軍隊内の腐敗といった「反戦文学の領分」である部分だ。単なる戦場の「英雄」やその勇ましさではなく、そういった悪の側面をツェーバーラインは包み隠さない。
 だがそれは、反戦に行き着くのではない。この作者にとってあくまでその悪の部分は戦争賛美のための材料である。戦場が悲惨であればあるほど、軍隊内の理不尽が横行していればしているほど、そこで闘う兵士たちは美しく輝くのである。内外からの困難に立ち向かう主人公、そして戦友。彼らは何のために戦うのか? 「祖国ドイツ」のためにである。この信念を描くことの意味を、池田氏は次のように書く。


  ヴァイマル時代の反戦文学は、戦争と軍隊の悪を描くことを、戦争否定という当然の、だが読者ひとりでは実行しようもない課題と結びつけた。同じ時代に簇生した戦争称揚文学は、それらのうちでももっとも多くの読者のこころをつかんだ『ドイツへの信念』が端的に示しているように、たったひとつの、たとえば「祖国ドイツを信じる」というような、まずひとりでも実行できる課題によって、戦争と軍隊の悲惨さが克服できることを、読者に伝えたのである。*2


 ツェーバーラインは1937年、続篇となる『良心の命令』を刊行する。そこでは戦後の、義勇軍団に入ってからの体験が下敷きとなっている。そして、主人公がアカどもの革命を鎮圧した後、「ドイツの将来」について思想が展開されていく。そこではもちろん「十一月の裏切り」が根本となるのであり、ユダヤ人への憎悪へと繋がっていく。
 作品内ではそれを象徴するものとして、主人公の恋人に絡むユダヤ人青年たちを撃退する出来事が描かれる。
 ユダヤ人に対する差別心剥き出しの思想がこの場面で展開されていく。ツェーバーラインはそれをユダヤ人たちの「ニタニタ笑う」顔やそれに対する「吐き気」、子どもの頃にユダヤ人の少年を「臭い」からといじめる、そういった感性に訴えかける方法で読者に伝えていくのである。それは『ドイツへの信念』での戦闘描写から引き継がれた、具体的であり肉体的な、つまりは「個々人の生活の実感とかかわる次元」である。読者はユダヤ人に対する憎悪をあからさまなイデオロギーの理論展開ではなく、実感によって植え付けられていった。そして、それこそは「文学表現のもっとも本質的な、もっとも豊かな機能」なのである。この点において、戦争称揚文学とは逆の立場を取る作品群は、それ以上の読者の「共感」を得ることはできなかった。
 だがしかし、ツェーバーラインの小説には「ただひとつ描かれていないもの」があると池田氏は指摘する。
 『良心の命令』の主人公はタイトル通り、その「良心の命令」というものに忠実であろうとし、それは大戦の「祖国を信じる」という意志からそのまま受け継がれ、国内での革命状況を鎮圧し祖国を奪い返すための戦いに発揮される。主人公は作者の体験そのままに、ナチ党に真の道を見出し活動していく。
 前作と合わせて2千ページ近いこの長大な作品の中でしかし、主人公は自分自身を振り返ることをしない。つまりユダヤ人を憎悪する自分とは何なのか、ユダヤ人たちを排撃することを命じる「良心」とは、「祖国」とは何なのかと省みることがない。憎悪すべき、排除すべき「ニタニタ笑」う、「臭い」ユダヤ人たちの中に「生きた人間を発見しようと」試みることはなかった。「ユダヤ人」という括りだけで判断し、彼ら彼女らの顔も名前も人生も見ようとはしなかった。それよりもひとりで既存の価値観に安住して生きることのほうがよっぽど気楽だから。
 祖国を信じるとか愛するとかいうその「信念」は、初めから顔の見えない一方的な上下関係によって成り立っている。それは絶対的な孤独である。なぜなら自分の信じる祖国とは人間ですらない不可侵の虚構であり、自分はそれにただ従って生きていればいいからだ。自分の言葉など発する必要がないからだ。そして他人の言葉など聞かなくていいからだ。そこに新しい感性を刺激する、もしかしたら自分は間違っているのかと考えさせる他者は存在しない。自分を省み新しい生き方を模索し発見することもない。
 これこそがまさに、「ナチズムとその支持者たち、容認者たちとの関係のありかた」であった。彼らは自分の生き方を自分で決めていると思いながら、実は現実を直視せずに自分たちの責任を拒否していただけだった。敗戦の理由は祖国にも自分たちにもなく、「十一月の裏切り」にあるのだとでっち上げて。
 ツェーバーラインの小説は読者にその価値観が確かであると安心させ実感させた。それはつまり、そうやって安心したがっている民衆がそれだけいたということである。『良心の命令』が刊行された1937年という「第三帝国」の「黄金時代」の日常とその文化は、そのような人間たちによって支えてられていたのだ。

 その輝かしい「日常」をより掘り下げるためのものとして、クルト・エッガースという詩人・劇作家が1941年に刊行した『戦士の革命』が取り上げられている。
 ツェーバーラインよりも10歳若い、第一次大戦時にはまだ八歳で当然従軍経験のないこの人物はしかし、『戦士の革命』という思想書において戦中派たちの歩んだ心情をありありと描き出す。
 エッガースはまず、中世における「市民階層」の誕生と近代までの流れを確認する。その階層は18世紀市民革命によって「社会の管理者」となっていったが、そこから「革命的性格」をその階層は失い「安寧」こそが「最大の倫理」となった。そしてその安寧を乱すものこそ「社会の敵」。やがてその階層は19世紀にはユダヤ人たちに支配されるようになり、「その結果、『民族」や『国民』、あるいは「民族性』や『国民性』よりも『人類』あるいは『人間性』が高い価値とされるようになった」。
 ここからプロレタリアートたちが現れてくるのだが、「市民階層の死を宣告した」プロレタリアートも宣告されながら余生を送る市民階層も、第一次大戦という戦場に否応なく投げ込まれる。それが終わりを告げたとき、人々は「二つの部分」に分かれた。安寧を求め戦前の平和な状態に戻ろうとする者と、革命によって根底から社会を転覆させようとする者である。といってもそれはプロレタリアートではなく、戦場で「市民階層が喪失した『本能』を戦争によって奪回した戦士たち」である。
 戦争によってドイツ人本来の「本能」を目覚めさせられた者たちは「大きな変転の時代」を自覚させられた。ところがそれは道半ばでプロレタリアートを自称する「半兵士」によって「裏切られた」。その現実を前に兵士たちは義勇軍団に加わるなどして「戦い取った土地に新しい故郷を創出するため」戦った。そしてそこから、市民階層にもプロレタリアートにも属さないヒトラーという人物と、国民社会主義は生まれたのである。
 ではその戦士たちはなにを為すべきか。エッガースは「夢を行為によって実現に移そうとするとき、重要なのは価値の意識ではなく、義務の意識なのである」と説く。その義務を果たさぬ者は「裏切者」である。そして戦士たちは「ドイツ人としての自己形成」を目指す。ドイツ人として産まれるのはあくまで偶然でしかない。そうではなく「自分の血を意識するようになり、自分の意志によってドイツ国民の運命共同体に加わる決意をするとき」、そんな「ドイツ人としての自己に向けての革命」が戦士の革命へと道を開く。
 そのような共同体を築くためにはどうするか、「新しい人間」はどのように生まれるかというと、他でもない「すぐれた人間の選抜」によって可能となる。そのためには結婚すら国家が「自分のものにする」。そこでは「ドイツの血統」が第一になるのであり、「ニュルンベルク法」および、遺伝病者と見做された場合に強制的に断種手術を施される「遺伝病子孫予防法(「断種法)」といった政策は「国家の責任意志」によってなされるものである。
 1934年からは「帝国職業競技」が開催され、若者たちは職業における専門技術を競いあう。それによって選抜された者はヒトラーに会うことを許され、「ふさわしい支援を受ける権利を獲得する」。そうなるためには「鉄のような神経と強固な意志とをそなえた人間を、強靭な抵抗精神と嬉々とした攻撃欲とをそなえた人間を、必要とする」のであり、この選抜と国家の支援によって「国家と国民がかれらを義務と委託の関係」になる。
 こういった「有能性」の原理によって選抜された者たちで構成された日常を実現するための革命こそが「戦士の革命」である。それは「国や隣人が弱い者を援け護っていくという原理とは正反対のありかた」である。
 しかし、それだけではない。この革命が目的とする「ふさわしい未来」をエッガースは書く。それは他でもない戦争であり、兵士であることをやめるなら、「帝国は存続することをやめるであろう」。「敵たちがこの世から撤退することは決してない」のだから。
 つまり、「戦士の革命」とは常に戦争状態を想定しそれを日常化することによって、戦争に勝利するためにふさわしい選抜を行うことによって、「十一月の裏切り」を繰り返さない「最後の手段」である。ナチスはそれを具体的に政策として形にし、虐殺という結果を生んだ。「あの時代はよかった」とするその「第三帝国」の日常とはそのような構造によって営まれていたのである。そしてそれは、『戦士の革命』を著したクルト・エッガースという、第一次大戦開戦当時は8歳に過ぎない、従軍経験のない若者によって「合理化し美化」されたのである。それはつまり、大戦を経験していない者たちにすら、「十一月の裏切り」による戦中派の「怨念(ルサンチマン)」は培養され日常化されていたことを意味するのである。

 この「戦士の革命」の日常のうち、「もっとも苛烈な選別の日常」を映し出した表現として池田氏が挙げるのがレーニ・リーフェンシュタール『オリンピア』である。
 1936年、ナチズム体制の「黄金時代」がその始まりを告げたのが冬季・夏季ともにドイツ国内で行われたオリンピックだった。冬季は南部バイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催され、ここには選手村ならぬ「観客村」が設置された。これは「歓喜力行団」に所属する、職場で優秀な評価をもらった市民たちがその特典として招待されたものである。
 夏季は「ベルリン・オリンピック」として知られ、それを映画として『民族の祭典』『美の祭典』の二部構成でまとめたのがリーフェンシュタールの『オリンピア』である。
 ナチズム体制下で撮られた映画作品ではもっとも有名であろうこの作品は、その「鮮烈かつ衝撃的なカメラワークと画面構成」にから生まれる映像美によって映画史に名を残し、現在もその美しさに魅力される者は多い。たとえば映画のレビューサイトでこの映画を検索してみると「この美しい映像の前には撮られた経緯等の問題は本当に些末なこととしか思えない」といった評価がゴロゴロ出てくる。
 だが、その美しさに映し出されるドイツの選手やナチ党員たち、大勢の人間の映像はもうひとつの現実を「陰画(ネガ)として内包していた」。
 1933年7月公布、翌年1月1日より施行された「遺伝病子孫予防法」通称「断種法」は、遺伝病者と見做されれば「身体的および精神的に健全かつ立派でないものは、みずからの痛苦を子供の身体のなかで永続させてはならない」というヒトラーの原理のもと、1945年の崩壊までに、実に40万もの人々が断種を強制的に施された。
 また何度か名前が出ている、1935年9月に採択された「ニュルンベルク法」は正式には「帝国市民法」と「ドイツ人の血と名誉に関する法律」から成り、有名な鉤十字のナチ党の旗がドイツ国旗とされることや、ドイツ人でない者、すなわちユダヤ人から公民権を事実上奪うことなどが決められた。
 当然ながらこういった政策にはアメリカをはじめとしたユダヤ人団体などのコミュニティから非難が殺到し、五輪開催に反対の声が上げられた。多くの選手を派遣する大国がボイコットの方針を採れば、五輪は最悪中止に追い込まれかねない。そうでなくとも欠員が出れば不本意なものとなるだろう。
 ヒトラーはそれを防ぐために、五輪期間中に限り、ユダヤ人に対する方針を転換した。ドイツの町からあらゆるユダヤ人排撃のためのポスターや店の前にぶら下げられた「ユダヤ人お断り」の看板を撤去させた。さらには派遣されてくる選手団の中にユダヤ人が所属していても目をつぶるどころか、自国の選手団に二名のユダヤ人選手を入れることすらした。
 そしてまた、ナチスは冬季五輪の閉幕後の3月7日に、第一次大戦の戦勝国によって占領されていたラインラントへと進駐した。ヴェルサイユ条約を真っ向から破棄するこの行為にしかし、国際連盟は有効な手立てを打つことはできず、ドイツ国内での進駐の是非を問う国民投票は、投票率99%、支持率98.8%という凄まじい数字で信任を得ていた。
 これらの事実はつまり、『オリンピア』によって描き出される「美しさ」とはどんな日常によって成り立っていたのかを表している。当時の都市の住民一人当たりの映画館入場回数のデータを示しながら、映画がいかに日常の娯楽として大きな割合を占めていたのか、そして『オリンピア』に魅了される観客たちが、その「感動」によっていかに「選抜と選別の日常を維持し再生産することに加担」されてきたのかを意味している。それだけの力を、この映画はいまも保ち続けている。
 それはまた、オリンピック自体に対する「感動」の意味にも繋がってくる。オリンピックというものがいかにスポーツを利用して「国力」を示せる場であるのか、ヒトラーがいかにこのことを重要視していたのか。何を見せ、何を覆い隠すのか。その覆い隠された下にはどんな人々が踏みにじられているのか。そしてこれは、いま現在のオリンピックにおいても変わっていないのである。

 『虚構のナチズム』にはリーフェンシュタールの来歴も記されている。彼女は映画に携わる以前はモダンダンスのダンサーを志していたが、それが挫折した後、転機がもたらされる。それは山岳映画というジャンルを撮る監督であるアルノルト・ファンク監督の『聖山』という映画への出演だった。
 山岳映画とは文字通り山岳を舞台に、山に登り過酷なその自然の猛威に立ち向かう青年たちの姿を描いたものだが、リーフェンシュタールはそこで男たちを励まし、自らもダンスによって鍛え抜かれた身体表現による演技で魅力を発揮するヒロインとして登場する。
そのファンク監督の山岳映画から多くを活かし制作されたのがリーフェンシュタールの初監督作品『青の光』である。
 ここで池田氏が「興味深い」として名を挙げているのが、その『青の光』でシナリオを担当したベーラ・バラージという人物である。
 バラージは1919年に起こったハンガリー・ソヴィエト革命に積極的に加担した。その革命によって立てられた政権が崩壊すると、ヴィーンに亡命後、ドイツに移り共産党で活動すると同時に「ドイツ・プロレタリア革命作家同盟」で中心的な役割を担った。さらに映画理論の分野において「消しがたい足跡」、それぞれ1924、1930年に刊行された『視覚的人間』『映画の精神』といった著作を残している。
 しかし当然ながら、「確固たる信念をもった共産主義者」であるバラージがナチズム体制下のドイツにいられるはずはなかった。1932年の『青の光』封切りの後、ドイツをしばらく留守にしていたリーフェンシュタールは、帰国したときにはドイツは既にナチズム体制となっており、バラージはモスクワへと旅立っていた。リーフェンシュタールはその旨を伝える手紙を読み「声を上げて泣いた」と回想している。その一方で彼女は『青の光』が封切られた少し後に、たまたま聞きに行ったヒトラーの演説会で衝撃を受け、彼に手紙を書いていた。『青の光』を観て感銘を受けていたヒトラーは直々に電話をかけ、ふたりの関係が始まったのだった。
 この章の冒頭に書いた通り、ナチズム体制は国の意向にそぐわない芸術、思想を弾圧し排除した。20世紀初頭から現れた立体派、未来派、さらにドイツにおけるダダイズム、表現主義の作家たち、そしてユダヤ人たちの芸術表現である。共産党も弾圧され多くの党員たちが逮捕されたため、党主導の「ドイツ・プロレタリア革命作家同盟」も活動できるはずはなかった。
 だがしかし、ヒトラーが感銘を受けた『青の光』のシナリオを書き上げたのは大敵たる共産主義者だった。そして、それを制作した監督さえも秘密国家警察(ゲシュタポ)から、彼女はポーランド系ユダヤ人であると報告がなされた。それでもヒトラーはリーフェンシュタールをガス室へ送るのではなく、国家的プロジェクトの映画を撮影させるという道を与えたのである。
 そしてまた、ナチズム体制はその始まりにおいても、自分たちの忌み嫌う芸術表現に源流を持つ者を打ち立てたのである。
 それは1933年4月20日、つまりナチズム体制となってから最初のヒトラーの誕生日、この記念すべき特別な日に初上演されたのが『シュラーゲター』という戯曲であった。これはアルベルト=レオ・シュラーゲターという人物と彼にまつわる事件を題材に書かれたものであった。
 1923年3月15日、ドイツ最大の工業地帯であったルール地方を走る鉄道が爆破された。犯行グループは相次いで逮捕され、その主犯であったシュラーゲターは銃殺刑に処せられた。ドイツではなく、フランス軍によってである。
 なぜなら、そのときルール地方はフランス軍によって占領されていたからである。大戦後のヴェルサイユ条約によって定められた多額の賠償金の支払いが行われていないことを理由に、フランス軍はドイツの石炭や鉄鋼といった重要な産業を担う場所へと進駐したのである。ただでさえ賠償金によって財政が苦しいドイツ国内にとって、その行為はより厳しい不況を招くものであり、民衆の反感は高まった。
 ヴァイマル政府はルール地方の住民たちに、フランス軍の命令には従うなといった「消極的抵抗」の方針を打ち出したが、義勇軍団に参加した経験を持つシュラーゲターはそれを生ぬるいと感じ、直接行動へと踏み切った。そして、ドイツ内外から寄せられた救済の声にも関わらず、フランス軍によって処刑されたのである。
 彼は義勇軍団のメンバーやその他の右翼陣営から「国民的英雄」と称えられた。ナチ党もこれに同調し、シュラーゲターはナチ党員だったとさえ発表した。
 それだけではない。池田氏は、シュラーゲターによるこの決起がなければ、1918年からのドイツ革命の時代が終わりを告げ、そこからちょうど5年後の1923年11月9日に、あの「ミュンヘン一揆」をヒトラーたちが起こす決意をしたかさえわからないと指摘する。それほどに、この事件は「革命の実践を超えた衝撃と共感を国民の中に生み出した」。ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、ルール占領を「運命はもう一度ドイツ民族に再起の手をさしのべた」と書いたのである。シュラーゲターの行動は、ヴァイマル体制への、果ては民主主義への不信感、それに抗議し犠牲となる精神を持つ「英雄」の待望という土壌を呼び起こした。
 そして、自身が政権を得た最初の誕生日という慶賀すべき日に、この出来事と人物をテーマにした戯曲が初演を迎えたのであり、その脚本が単行本として出版された際には「アードルフ・ヒトラーのために」と書かれていた。
 この献辞を掲げ、『シュラーゲター』を書いたのはハンス・ヨーストという作者だった。プロイセン国立劇場の首席演劇監督・芸術部長、「ドイツ文学アカデミー」総裁、「帝国文化院」のうちのひとつ「帝国著作院」総裁といった、まさにナチズム体制の文化人として最高といっていい地位を占めていた彼はしかし、それ以前は全く反対の立場、後にナチスによって弾圧されることとなる表現主義の作家として活動していたのである。
 1890年生まれのヨーストは第一次大戦中に劇作家としての道を進み、表現主義の「演劇分野におけるもっとも代表的なひとり」として名を残していったが、戦後になるとナショナリズムへと転向し、1924年にナチズム支持を表明、ナチ党の文化組織「ドイツ文化闘争同盟」で前衛芸術に対する攻撃を始めた。それはつまり「みずからの芸術的過去にたいする全面否定」だった。
 しかし、ヨーストの作品は表現方法すらもガラリと変えたわけではなかった。むしろ、『シュラーゲター』は表現主義的な方法が随所に活かされている。それは世代間対立、そして観客への挑発といった特徴的な表現方法である。
 世代間対立とはその名の通り、古い世代と新しい世代の対立、若者たちによって父親世代の人間たちが糾弾されるといった方法だ。『シュラーゲター』においてそれは、ヴァイマル政府の腐敗という意味において強調される。直接行動の方法を練る主人公シュラーゲターに対して、消極的な姿勢を示す老将軍や知事といった人物が描かれる。つまり、体制側の人間としてである。シュラーゲターの進言をはねつけるこういった人物との対立を見せることによって、悲劇的な劇の効果は高められるのである。
 ではもうひとつの特徴、観客への挑発とは何か? それはつまり、観客をも劇へと誘い込むことである。ヨーストの初期作品『若き人』では、ここでも古い世代に対する抑圧と絶望が描き出され、最後には主人公が新しい世界へと生まれ変わると宣言するのだが、その際、幕が降りる瞬間に彼は観客に向かって突進してくるのである。
 このような観客への挑発と肉薄、受け手と送り手の境界線を曖昧にし観客の能動化を促す方法は、ドイツ表現主義における基本的な理念であり、それは共産党員であり労働者演劇運動を展開していったベルリンのダダイストたちにも受け継がれ実践されていく。
 例えば、モナリザにヒゲを描き加えるとか、便器にサインして「泉」と名付けるとか、いまでもそういった作品は見る者を驚かせるが、それは単に現実を嘲笑う無意味さの表れなどではない。既成の価値観を壊し、「観客に違和感をいだかせ、立ち止まらせ、別の可能性をみずから模索するきっかけを与える」ためであった。
 ヨーストもまた、演劇によってそれを実践したのだった。観客を、単に客席に座って観ているだけの存在にしない。逆にお前もこっちに来てみろ、と促したのだった。


  こうした挑発的な舞台が観客に向けて投げかける根本的なメッセージは、いま眼前にある現実だけがありうる唯一の現実ではないということであり、いまある現実とは別の現実を創り出す主体は観衆自身、いまは観衆である民衆自身であるということだったのである。*3


 だがこの方法は『シュラーゲター』において、「信じるに足るものを激しく希求する観衆に向けて」発されるものへと移り変わった。この劇で観客に突っ込んでくるものは人ではなく、シュラーゲターを処刑した銃弾の閃光なのである。それは、処刑されるのはお前自身であり、その「英雄」となるべきはお前自身なのだというメッセージに他ならなかった。

 この観客を主体化させる方法を、ナチスはさらに国家レベルで奨励し実践した。それはティングシュピールという演劇の形式である。池田氏が「ナチズムの運動が生んだもっともユニークな文化表現」と評するそれはどういったものなのだろうか。
 政権掌握の1933年、宣伝大臣ゲッベルスは文化統制の傍ら、野外劇場の建設に力を入れ始め、「ドイツ野外劇・民衆劇全国同盟」なる団体も発足させる。
 翌年、山中の自然の中にできた円形の劇場で、最初に『ノイローデ』という劇が上演された。それは不況の中で働く炭鉱労働者たちが、多くの死傷者を出した事故をきっかけに、炭鉱は採算が取れないので廃鉱にすると決めた経営者に対抗するという内容である。労働者たちが危機に瀕したとき、ヒトラーを思わせる「見知らぬ男」が登場し、「自由意志による労働と犠牲」、「労働は新しい帝国の心臓の鼓動だ」などの言葉によって彼らを救うのである。
 ノイローデとはドイツ東部シュレージェン地方にある町の名前で、ここでは1930年実際に大規模な事故が発生している。こういった現実の要素を組み込みつつ、新たに発足したばかりのナチズム体制の理念を観客の感性に植え付けたのである。
 だが、ここで重要になるのはその内容ではなく、表現の形式である。劇の最後は、登場人物たちが合唱隊と隊列を組みながら唱和し去っていくのだが、実は劇自体が台詞の多くを合唱によって構成されているのである。さらに合唱隊以外の、つまり名前のある登場人物たちも通常の演劇のような身振りなどをほとんどしない。
 この合唱はいわゆる「シュプレヒコール」と呼ばれるものである。ティングシュピールはもともと、権力掌握よりずっと以前のSA(突撃隊)の運動の中で行われてきた寸劇が起源となっている。まずひとりの先導者が宣伝文句を叫び、隊列を組むメンバーがそれを唱和する。この方法を街頭の広場などで寸劇として応用し、隊列の中で共産党、ユダヤ人、そしてナチ党といったグループに分かれ、シュプレヒコールの応酬をしあう。そのうち周りを取り囲んでいた観客までもが興奮し、シュプレヒコールに唱和したり、隊列に加わる者さえ出てくる。そして「演じるものと観衆との区別がなくなって、すべてが演じ手となる」。
 この観客自身が主体となって参加する表現形式、芸術の場から政治の場までそれを繋げていくことは、転向以前のヨーストを始めとしたアヴァンギャルドたちのテーマでもあった。ティングシュピールは「国民革命」を掲げ民衆による自発的な共同体の創出を目指したナチ党による「ひとつの解答」であり、アヴァンギャルドたちが「ついに実現しえなかった究極の目標」であった。ナチズムはそれを野外劇場で何千何万の観衆の前で演じさせ、脚本を一般公募することまでさせて民衆の主体化を促したのである。
 だが、ティングシュピールはその到達点と形式ゆえに、急速に終わりを迎えることとなる。『ノイローデ』の上演からわずか3ヶ月後の1934年9月に「ティング」という名称を用いること、さらにティングシュピールの形式を持つ脚本は国の許可を得ない限り発表できないことになった。ここからこの表現形式は衰退の一途をたどる。
 この規制の理由については、突撃隊の衰退との関連が指摘されている。1934年6月30日、「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清が起こる。ヒトラーは権力闘争を繰り広げていた突撃隊隊長エルンスト・レームを始めとした幹部ら含め1千名以上を殺害した。それは突撃隊の幹部・隊員らが目論んでいた「第二革命」の理念と結びついていた。彼らはナチスによってなされた「国民革命」の後、さらに「権力と戦利品が兵士たちに分配されることを要求する」。それこそが権力掌握の次にやってくるべき「第二革命」であった。それはティングシュピールの起源を持ち、さらに劇場での合唱隊にも多くが参加していた突撃隊によってなされるはずだったのである。
 正式なティングシュピールは、1936年8月、発足からたった2年で最後の上演を迎える。それは『フランケンブルクの骰子の賭け』というものである。内容は民衆による権力者の弾劾だが、すでにそこに主体的な民衆は存在しなかった。代わりに現れるのは「黒い鎧兜」の、『ノイローデ』における労働者たちと変わらぬ格好の「見知らぬ男」とは違う、労働者とはかけ離れた「神話化された救済者」である。そこにいた観客が見つめるのは「いまある現実とは別の現実」ではなく神話化された虚構だった。民衆は骨抜きになった自発性を誇りにしながら、この「英雄」に従属したのである。




3.

 池田氏の本を読み始めるのと同時期に、ナチズムに関するドキュメンタリーをいくつか観た。その中のひとつに、2018年現在も存命の、ナチズム体制下を過ごした人々のインタビューで構成されているものがあった。
 話をする彼ら彼女らは、ナチスによるユダヤ人迫害について「無自覚だった」「知らなかった」「深く考えなかった」と言葉少なに語る一方で、ヒトラー・ユーゲントなどで過ごした当時のことなどは実にいきいきと、党の歌を高らかに歌うことまでしながら話すのだった。
 そのうちのひとりには、100歳を越えたいまも各地の学校でナチズムの時代について講演して回っている男性もいた。彼も同世代の多くの男子と同じくヒトラー・ユーゲントに入り、日々を送っていた。
 ところがある日、仲間から「ユダヤめ!」と罵られる。困惑したまま家に帰ると、父親がナチスに連行されていったと聞いた。男性の父親は第一次大戦後に反革命義勇軍で活動するほどの愛国者であったが、ユダヤ人の血を引いていると見做され、収容所に送られたのだった。
 父の活動履歴などを記した嘆願書を送ると、しばらくして彼は帰ってきた。しかしかつての溌溂とした明るい父の面影はなく、抜け殻のようになり、翌年亡くなったという。それでも男性は、そのときは「父親が収容所に行ったのは何かの間違いだったのだ」と信じて疑わなかった。彼もまた、自身も参加したという党大会の映像を観ればニコニコと当時を思い出し、流れる党歌に小躍りするのだった。
 僕は最初、なぜ当時をそんな風に回想できるのかわからなかった。現在これだけ「悪」の位置付けで語られるナチズムを生きたということは、消したい過去になりこそすれ、いきいきと語れる思い出にはなりえないのではないかと思ったからである。
 だが、池田氏の著作を読むにつれ、その心情が少しずつ理解できるようになってきたと思う。ナチズムは危機的な失業状況の中で希望の光として現れた。労働者の平等を謳い、労働奉仕を制度化し、労働の現場にいくつもの「喜び」をもたらす政策を考案した。そしてそれらは「束縛」より「結束」の意識を民衆に植え付けた。ナチズムはそれを「国民革命」として掲げた。そこで自発的に奉仕に赴いていたであろうドキュメンタリーの人物たちにとって、それは紛れもなく彼らの青春だったのであり、戦後になってもなお「あの時代はよかった」と回想できる根拠となりえたのである。
 しかしその「根拠」は、結局戦争と破滅に繋がっていた。生活における助け合いの精神も、新しい価値観を発見すべき文化芸術も統制され、自発性は搾取され続けたのである。民衆は実体のない「祖国」に従属し、それを疑う眼を失い、そこに生きる自分自身を見つめる作業を失い、国家に踏みにじられている誰かを見失った。そして、人間性を喪失した虐殺に加担したのである。

 ドキュメンタリーといえば、近年話題になった映画に『ゲッベルスと私』というものがあった。2016年に原題「A German Life」として制作されたこの作品は、宣伝大臣ゲッベルスの秘書としてナチズムを生きたブルンヒルデ・ポムゼルという女性のインタビューによって構成されている。
 こちらは観ていないのだが、レビューサイトを見ると、そこで彼女が語った言葉がいくつか紹介されている。彼女の働く職場は「良い人が多かった」し、ゲッベルスもそうだった。与えられた場で働く自分を「誇らしく思っていた」。一方でユダヤ人迫害については「知らなかった」と語る。そしてあの時代には「どんな人でも抵抗なんてできな」かっただろうし、ユダヤ人迫害を非難する現代の「彼らも同じことをしていたと思う」。
 彼女の発言は当時権力の側に限りなく近い場所にいた者として貴重なものであり、一抹の真実を語っているのだろう。だが、同時にそれは彼女が戦後になってもなお、もうひとつの現実を見過ごし、ついに自らを見つめ直すことから逃れていたことをも意味している。なぜなら「抵抗なんてできない」と彼女が決めつけるその時代の中にあっても、限りなく絶望的な闘いを続けていた人々がいたのだから。池田氏の『抵抗者たち』には彼女が蓋をしたもうひとつの現実が描かれている。


 池田氏が酒の席でよく語ってくれるエピソードがある。それは在特会、「在日特権を許さない市民の会」のデモを見に行ったときの話だ。
 行進する在特会の人間たちの真ん中、街宣車の上では中学生くらいの少女が聞くに堪えない言葉を叫び続けていた。
 池田氏は、絶対に最後まで彼女の言葉を聞き取ろうと沿道からデモについていったが、途中で警官隊に阻まれてしまう。すると傍からその様子を見ていた人が「こら警察、一般市民を通してやれよ!」と叫んだ。それを聞いた池田氏は何言ってやがる、お前も一般市民じゃないのかと思ったという。
 僕はずっと、この言葉を叫んだのは在特会の人間だと思っていた。しかしそうではなかった。このときのことを記した「私たちの現実が生み出した『嘔吐』」(中村一成『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件<ヘイトクライム>に抗して』書評)には、それが在特会に対する反撃側の人間から発されたものだと書かれていた。
 もちろんそれは、反撃側の人々を否定するという意味ではない。ヘイトスピーチは、それをする連中が開き直って主張するような「表現の自由」などではないからだ。世界から確実になくさなくてはいけない課題だからだ。
 しかし、その課題はヘイトスピーチをする彼ら彼女ら自身をこの世から消し去るということではない。なぜなら、その人たちもこの社会で平等に生きる権利を持つ人間であるはずだからだ。
 ナチズムは、その思いをついに最後まで持つことはなかった。少なくとも大江健三郎の『セヴンティーン』のように、相手のふところに飛び込んでそこに生きる人間を描こうとしなかった。『ドイツへの信念』『良心の命令』を書いたツェーバーラインは、「祖国」という虚構を見て、抹殺すべき「ニタニタ笑う」「臭い」ユダヤ人の中に人間を見ようとしなかった。そして、ユダヤ人を侮蔑し見下す自分自身とはどういう人間なのかを省みることはなかった。
 ボランティア精神、自分の力を誰かのために使いたいという心は、人間にとって大切なものである。しかし、それは時として、自分は自らの意志で正しいことをしているのだからと、周りが見えなくなってしまうという状態に陥ってしまう。ナチズムがなによりも重要視したのはこの自発性だった。そしてその自発性は、こんなに素晴らしいことをしている自分を特別視し、その下に誰が踏みにじられているのかということを見えなくしてしまったのである。
 つまり、池田氏のお前も一般市民じゃないのかという言葉は、権力に組み込まれていたり、そこから差別の言葉を発している者だけではなく、たとえヘイトスピーチに反撃している側であっても、そういう本当に正しいことをしている人であっても、それをしている自分自身を省みるという作業を忘れてはいけないということを意味している。
 「一般市民を通してやれよ」と叫んだその人物は、きっと正義感と警察に対する憤りから無意識にその言葉を発したのだろう。自分を特別視などしてはいないだろう。だがそんな無自覚こそが、ナチズムをナチズムたらしめていたのである。
 だからこそ、僕は、僕たちはその無自覚と、自分とは反対の立場にいる人々に届く言葉を探らなければいけないのである。それは本当に困難な課題であるだろう。だがそのきっかけを与える表現を目指すことこそ、その境界を突破することこそ、第一次大戦という惨禍を経て、権力に従うのではなく、自分と自分が共に生きていきたい人々と差別のない社会を作り上げていくために立ち上がった人々が築こうとした道だったはずだ。
 「彼らも同じことをしていたと思う」? そうかもしれない。ここで偉そうに書き連ねながら、いままでなにも行動してこなかった僕は、ナチズムの時代にいたら、権力に従属してしまったかもしれない。だがそれでも、その上で、いや、もちろん私たちは抵抗すると言い返すべきなのである。




*1 池田浩士『ボランティアとファシズム 自発性と社会貢献の近現代史』人文書院, 2019, 283p

*2 池田浩士『虚構のナチズム 「第三帝国」と表現文化』人文書院, 2004, 259p

*3 同上 62p

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