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「恋」じゃなくなる日(映画『リズと青い鳥』評)

 控えめな靴音、山鳩の声、涼しげな朝の匂い。澄んだ空気が伝わってくる。気弱そうな少女は階段に座って、大好きな人を待ちわびている。うるんだ瞳から涙がこぼれないように。もうすぐ会えるという期待と、来るとはわかっていながらも少しの不安を胸に。いつも過ごしてきたであろうその朝の停滞に包まれている。
 彼女がやってくる。溌剌とした足音だけでそれはわかる。紅潮した頬と、そのおかげですっかり乾いてしまった涙のあとに、ようやく少女の世界は動き始める。彼女の後ろを歩く。靴を履き替える。音楽室の鍵を受け取って、水を一口飲んで、最上階まで上がっていく、いつもそうしてきたように。じっくりと描かれるふたりの登校シーンを、冗長などとは感じない。なぜなら、そんな何気ない日常の積み重なりが、少女にとってどれだけかけがえのないものだったのかが痛いほどに伝わってくるから。そして同時に、それがいつか失われてしまうという、抗いがたい予感も。画面は一瞬暗転し、「disjoint」の文字が映し出される。もう、物語を止めることはできない。だって、鍵は自分で開けてしまったのだから。

 山田尚子監督の最新作『リズと青い鳥』は武田綾乃原作、2015年4月に第一期、16年10月に第二期が放映されたアニメ『響け! ユーフォニアム』(監督は石原立也)のスピンオフ作品である。本作の主人公となるふたり、鎧塚みぞれと傘木希美はアニメ第二期より本格的に登場した。
 内気な少女・みぞれは人とうまく話すことができず、中学に入学してもいつもひとりで過ごしていた。そんな彼女を希美は吹奏楽部に誘う。みぞれはそれからの日々に充足を覚えながらも、明るく社交的で友達も多い希美にとって自分は「たくさんいる中のひとり」という煮え切らない思いを抱いていた。
 全国大会に行く、という中学では届かなかった目標を掲げ、ふたりは北宇治高校へ進む。が、まもなく事件が起こる。怠惰な三年生と、真剣に部活に打ち込みたい一年生が衝突するのである。その先頭に立っていた希美はのれんに腕押しの状況に失望し、大半の一年生とともに部を去ってしまう。騒動の間も黙々と練習に打ち込んでいたみぞれを巻き込むまいと、彼女には何も告げずに。だがそのことによって、みぞれは、希美にとって自分など相談すらされない存在なのだと、深く傷ついてしまう。彼女の姿を見ただけで吐き気を催すほどに。
 このすれ違いは第二期序盤で解消され希美は部に戻るのだが、つまりそれほどみぞれにとって希美は大きな存在なのである。希美が去っても音楽をやめなかったのは、それが自分と彼女をつなぎとめる唯一のものだったからなのだから。
『リズと青い鳥』は、そんなふたりの物語である。
 映画のタイトルはヴェロスラフ・ヒチル原作の、同盟の童話から取られている。両親を亡くし、ひとりで暮らすリズと、その孤独な姿を見て少女に姿を変えてやってきた青い鳥。ふたりの物語はみぞれと希美の関係に投影される。そして橋渡しとしての伏線――鍵、窓、鳥かご(=学校、閉鎖的な空間)なども、巧妙に配置されているわけだ。
 

 自分にとっての「青い鳥」、希美に対するみぞれの想いは、アニメ本編で描かれていたものよりも、一層強いものとして伝わってくる。
 山田監督の前作『聲の形』にあったものが全編に渡る感情の噴出だったとすれば、同じ制作スタッフが今作において描いたのは、あと一滴でこぼれだしそうなコップの水のような感情の表出の瀬戸際、脆さそのものの表現である。キャラクターデザイン――アニメ本編よりかなり細く薄い線になっている――、作画、音楽、演出、あらゆる要素がふたりの世界を守るために存在しているかのようである。とくに表情、何度もアップになるふたりの(とくにみぞれの)表情には、胸をしめつけられるほどの感情の揺れがある。

 その「感情」は、みぞれの希美に対する、限りなく恋に近いものとして映る。少なくとも先述した冒頭のシーン、希美を待ち焦がれ、音楽室では触れるか触れないかくらいまで顔を近づけるみぞれの姿は、間違いなく淡い恋をする少女だった。
 だが、「限りなく恋に近い」としても、それを映画が終わったあとでも「恋」と言い切ってしまうには違和感があった。かといって、ふたりの関係を単に「友情」としてしまうのにも、物足りなさを感じてしまうのである。そして、クロスオーバーされる童話の中で、リズが青い鳥を解放する際に告げた「愛の形」という言葉さえも。
 どれも間違いではないけれど、しっくりくるわけでもない。その「言葉」に対する煮え切らなさがもっとも顕著になったのは、物語の終盤、ふたりが語り合うシーンだ。
 初めは「みぞれ=リズ」「希美=青い鳥」として認識されていたふたりの関係性が、徐々に変質してくる。そして広い世界に羽ばたくべき存在としての「青い鳥」はどちらであったか、ということに気づき、みぞれはその証左として圧倒的なオーボエの演奏を披露する。それはつまり、希美に対して、才能という残酷な現実を見せ付けるということでもあった。
 その事実を受け取ったあと、希美は泣きはらし、夕暮れの生物室で追ってきたみぞれと向き合う。卑屈な態度をとる彼女に対して、みぞれは言う。たとえ希美が自分のことを「普通の人」だと思っていても、私にとっては「特別」であり「全部」なのだ、希美がいなければいまの私はいない、と。そして希美を抱きしめ、彼女の好きなところをひとつずつ告げていくのである。それに押し出されたかのように、希美はぽつりと「……みぞれのオーボエが好き」と零すのである。
 最初、僕はこう思ったのだ、これでいいのか? と。ふたりの言葉は合致したようでどこか食い違っている。みぞれが口にするのは希美のしぐさ、声、内面までのあらゆる箇所である。恋する少女そのものの想いに対し、希美の返答はあくまでみぞれの「オーボエ」が好き、である。もちろんオーボエの演奏がみぞれの内面を映し出すものだったとしても、彼女の「恋」がこれで成就したのだろうか、「disjoint」から「joint」への移行は完成したのだろうか? 抱きしめるという、時としてそれ自体で言葉を軽く飛び越えてしまう力を持った行為を目の当たりにしているからこそ余計にそう感じた。
 

だが、その違和感とは結局、僕がこの映画を「恋物語」として見ていたからなのだろう。もちろん先述のとおり、そういった解釈ができるシーンはいくつもある。けれども、あくまでそれは物語の序章、ほんの一側面でしかないのである。
 『リズ』が描いた重要な部分とは、おそらく「言葉にすれば終わってしまうもの」だった。
 とくにふたりが「青い鳥」とはどちらであるかに気付き語るシーンがそうだが、どこか説明口調めいた、都合のいいものを感じた。だが、それは決して言葉を軽んじているという話ではない。ゆっくりと進行していたふたりの関係性の変化、その伏線。複雑に絡み変遷していくそれらは、たしかに「恋」だの「友情」だのと言い切ってしまうにはあまりにもここにある「感情」は繊細で緊張感に満ちている。だからこそ言葉以外の表出、表情、音その他の表現は際立っている。言葉にしてしまえば雲をつかむようにすり抜けていくとでも言うように。
 そしてそのことは、抱きしめながら語られる少女の拙い言葉にも表れる。言葉によって彼女は「終わらせてし」まう。それによって『リズ』は「恋物語」からの飛躍をとげていくのである。
 

 
 物語が進むごとに、みぞれから希美への視点の移行がなされていくのに気付かされる。序盤と終盤にそれぞれの目線で置かれる、中学時代初めてふたりが出会うシーン。みぞれからは童話世界につながる淡いタッチで描かれるのに対し、希美の視点はあくまで現実に即したものである。それはみぞれにとって希美との出会いは、やはりどこか物語めいた、何も知らない少女の希望だったからなのだろう。だからこそ希美の視点は、自分が「普通の人」だと(現実に)気付き、それを受け入れる、すなわちそれでも生き続けねばならないことを示している。それは映画を観る者の多くがいつか経験した、少年/少女という物語の終わりではないか?
 また、その視点の転換点として、希美が音楽室の窓を開ける場面がある。夏の空が広がる外の景色を見て、希美はみぞれをプールに誘う。それを受けてみぞれは誘いたい人――彼女に積極的に関わってきた後輩――がいると告げる。希美ははっとした顔を浮かべる。
 それよりも前に、夏祭りにみぞれを誘うシーンもある。その時点では、誘いたい人はいるかと訊いてもいないと返ってくるだけだった。
それは、きっとふたりの間で何度も交わされてきたやりとりだった。希美が行こうと言えば行く、希美が音大を受験するなら、自分も受ける。「希美が決めたことが、私の決めたこと」だったのだから。
しかし、彼女の関係性はいつの間にか拡がりを見せていた。大事な後輩ができた、先生から音大行きを薦められた。希美の驚きの表情、そこには自分にしか興味のなかったみぞれの変化への喜びと、それ以上に彼女がどこか別の――おそらくは自分より「上」の――場所へ飛び立とうとしていることへの不安がある。それは彼女を護ると同時に、自分のかごの中へ押し込めていたい、という意識を孕んでいる。それはみぞれが持っていた想いだったはずなのに。だが、すでに窓は開いてしまったのである。
そこから始まるふたりの不和、それに伴う嫉妬、劣等感、自分を慕う彼女からの愛情とそれゆえの煩わしさ、ヒリヒリした緊張感…… あと一滴垂らせばこぼれだしそうな水のように、触れることもままならない、震えるほどの繊細さ。このままいけばダメになってしまうことはわかっていても、踏み出せないもどかしさ。

あと一滴、そう、その一滴とはやはり言葉ではなかったか。それを発するのは難しい。だが、あまりに簡単でもある。何気ない一言が終わってしまう、もしくは言えなかったからこそ終わってしまう関係なんていくらでもある。だからこそ、怖い。僕が抱いた「恋物語」としての違和感の原因も、おそらくはそこにある。
でも、どれだけ陳腐に思えても、言わなければわからないことがある。大切なのは、終わってしまっても、そこからまた新しい関係性を創出していけるかということである。
みぞれが抱えていた想いが、希美が「全部」だという「恋」だったならば、彼女はそれを終わらせた。大好きな人を抱きしめながら、拙く、単純な言葉で。希美と新しい関係を始めるために、自分が自分を受け入れるために。
そして当然、だからといって、希美が自分の「特別」であるということが消え去るわけではない。信頼とは、別れてしまっても、いつか会える/いつでも会えると思えるような、根拠はなくても空虚でない確信なのだから。希美の言うとおり、物語はハッピーエンドがいいのだから。

言葉にすれば終わってしまうもの。それは物語の最後にも表れている。
それぞれの道を歩いていくこと。それが永久の別れを示すのではなく、信頼し合っていればいつかまた交わるのだということを自覚したふたり。みぞれはオーボエを、希美は普通大学の参考書を持って、励む。しかし、帰りはいつものようにふたりで、何か甘いものでも食べていこうか、なんて話しながら歩いている。それは少し哀しくもあり、でもそれ以上に愛おしい。希美のうしろで浮かべるみぞれの微笑は、そのことを物語っている。
そして希美は突然振り向く。みぞれは驚く。それで映画は終わるのである。
どんな顔をむけたのか、みぞれに何をしたのかは描かれていない。でも、それがわかったからといって、何になるのだろう? たぶん、どんな答えも違うのだと思う。納得はできないのだと思う。でも、それでいい。わからないままでいい。「言葉にすれば終わってしまうもの」は再び表れる。全編を通して映し出されてきた、表情すらも隠して。それはふたりの関係が「恋」ではない、新しいものに生まれ変わって、高校を卒業して、どんな場所に行っても、終わらぬように、ずっと続きますようにという、山田監督の祈りなのだと、僕は思いたい。




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