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実家がクラフトビールをやっている話。

自分の出身は岩手県盛岡市で、実家はベアレン醸造所というクラフトビール会社だ。今日はその紹介と、幼少期の自分の目線での創業期の思い出話。
楽しい思い出もいっぱいあるのに、若干苦労話が多めになった。
そういうのばかり筆が乗るのは性格が悪いんだろうか。
また、小学生の頃の記憶も含んでいるので、多少の誤りはご愛嬌

ちなみに、当事者目線での創業エピソードは共同創業者である、嶌田洋一専務著の「つなぐビール」(ポプラ社)をご参照ください。

一族の家業から離れた父と、家業ゆえにできたこと

江戸末期〜明治初期には盛岡市内で生きていた木村家は、長らく瓦やレンガを焼いたり、屋根葺きを担ったりということを主な生業としている。親戚の住まいが市内に小さな塊で散らばっているのは、人口が少ない時代から長く商売をやっているので、土を採取できる場所を買っては次に移ったということが理由らしい。

現在レンガの事業は祖父と、叔父(次男)が行っている。
冬に帰省をすると、重機で雪かきをしたり、チェンソーでオンドル(朝鮮半島由来の床暖房)用の薪を作る現役バリバリの祖父の姿を見られるのが頼もしい。

除雪車じゃなくてショベルカーで器用にやるスタイル。

父は三兄弟の長男だが、家業に関連した仕事には一度も就いていない。大学卒業後にはキリン仙台支社に勤め、盛岡支社の発足に伴って地元に戻る。その後、旧沢内村で立ち上がった銀河高原ビールに転職。3年半勤めた後、父を含む創業メンバー5人でベアレン醸造所を立ち上げた。

ドイツで使われていた100年前の醸造設備を使って、クラシカルなビールを主軸としていて、所謂「地ビールブーム」が淘汰された後の冬の時代に創業して以来、「クラフトビール」という言葉が浸透するまで、ヨーロッパスタイルのビールを作り続けている。

同社の本社兼第1工場は、実家のすぐ近く、盛岡市北山にある。というのも、その土地には元々レンガを焼く工場があり、祖父の代で生産を停止して廃工場となっていた場所に建設された。

昨今のマイクロブルワリーの隆盛からすると結構な生産規模を持っているのだが、これはゼロから場所を探していたら、30代前半での起業では到底用意出来なかったと思う。また外壁もタイルではなく、本物のレンガ造りで出来ていて、なかなかの雰囲気がある。

一族で連綿と続けた業種から離れはしても、自分のやりたいを貫くことができたのもまた、家業ゆえであったということだ。


6歳児に起業は理解できない

自分の幼稚園時代、父は上述の企業にいたので通勤に車で1時間強かかり、しかも製造部門におり、一般的なサラリーマンの働き方ではなかったと思われる。基本的に自分が寝起きする時間帯には家に全くおらず、と思ったら15時くらいに寝ていたりして、何をしているか殆ど分かっていなかった。
そのお陰で、幼稚園からひとり帰ったあと、寝室にある青いボトルをジュースだと勘違いして飲んだら引く程苦かった、なんてこともあった。

会社が登記されたのは2001年、自分が小学校1年生の頃で、この時期、急に家にいる時間が増えた。一緒にゲームで遊ぶようなこともあったり、スーパーファミコンの「ドンキーコング3謎のクレミス島」の完全クリアにいそしむ様子を見ていたりした記憶がある。大人になった今でも自分はあのゲームを103%クリアできる気はしないので、相当頑張っていたんだと思う。

一方、夜になると父はどこかへ出掛けていき、家族全員で夕食という時間は前職時代と変わらず、殆ど無かった。折角家にいたのに、なんで???と当時の拓哉ちゃん(6)は疑問を持ったものだ。後々になって知るのだが、創業期の無収入をカバーすべく、長らくお世話になっている飲食店でアルバイトに行っていたのだった。
準備期から昼は役所や銀行を回り、少し休んではバイトに行き...と、事業が始まってもいないのに随分なハードさだと、社会人になるとよりリアルに感じる。

その他にも、母が泣く泣く車を手放すなど、これまでの生活がなんだか窮屈になっていくような気がして、起業というものの良さが全くもって分からなかった。

そこそこ苦労もしたけれど

先述の通り、ベアレンは2001年が創業年なのだが、SNSなどでは2021年時点で18周年と謳っている。これは、土地利用の制限やら何やらで準備が滞りに滞り、なんと創業から2年間ビール工場としての稼働ができず、実質2003年からその操業をスタートしたためだ。2年も無収入であればそこそこに暮らし向きは苦しかったようだが、この辺はあまり記憶にない。

むしろしんどかったのは創業直後期で、なにせリソース不足なものだから、母が手伝いに駆り出されることがしょっちゅうあり、機械トラブルなどあろうものなら、夜の9時10時になっても家に誰も帰ってこないなんて日だって存在した。歩いて1分程度の家に晩ごはんを作る暇もなかったようなので、2個下の妹とお菓子食べて待っていたが、痺れを切らして様子を見に行った記憶がある。(こう書くと若干の育児放棄感が出るがそんな事は無い)また代わりに、友達と過ごす予定のない日の放課後や週末などは、祖父の家や叔父によく遊びに連れて行って貰ったので、これもまた家業というか一族に感謝する面だ。

もっとも、休日に事務所の電話番やギフト箱を折って小遣いをもらったり、現在は1度の開催で3000人を集めるまでになった工場前の飲み放題イベントで、今も可愛がってくれる常連のみなさんと出会ったり、クリスマスになれば事務所の2階でパーティがあって夜ふかしを許されたりと、楽しい思い出もたくさんあり、自分の人格形成に繋がる経験もしたと思う。この辺の話はまた別途書きたい。

子供は財務諸表を見れないから分かるはずがありませんよ、と言われればそれまでなのだが、幼い記憶というのは曖昧なもので、個々のエピソードは覚えていても、全体的にいつから会社が軌道に乗り、生活も安定しはじめたのかという時期の変化はおぼろげだ。

自分の成長につれて、いつの間にかベアレンは地元で知られるようになり、会社にも次々と人が増えるようになり、進学で東京に出てからもその存在を知っている人が思ったよりもいるなと思っている間に、いまや東京商工リサーチの結果では生産量が全国3位にまでなったらしい。(これは第3位の会社が昨年の調査に居なかったので、4位でいいかもしれない)

子供なりにそこそこ苦労もしたけれど、家族親戚にしっかりと育てられて私はグレること無くそこそこ品行方正に成長したし、多くの人に愛される企業となったベアレンは自分ごととして誇らしくある。



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