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芸術についての雑感②'

最近中古本で見つけた、サガンのインタビュー本。


個人的ハイライトをp.168 より抜粋
(一部捕捉)


インタビュア : 『子供が欲しい理由はひとによって違いますが、あなたの場合はどういうことでしたか?』


サガン : 『子供は重要ですが、子供がいない女性でも女性には変わりないと思います。誰かを愛していれば女性には変わりないのです。膝に年老いた猫を乗せて、うどんを、食べていても、一人でちゃんと暮らしている人たちがいるのですから。老猫を、そばに置いているエゴイストな老婆、その老猫はあらゆる絆や習慣によって彼女に懐いています。そういう女性はいつも想像上の子供を持っているのです。
ー"母性本能"が自分の子供を愛することなら、私は待っています、(だけど)子供を自分の所有物だとすることでしたら、私は(母性本能を)もっていません。』

【この文節から感じた、私の個人的メモ】
わたしは本質的な意味でのパートナーもいませんし、当然、子供もいません。(刹那的に一過性の関係はここ10年で多数ありましたが。)
わたしには愛すべき芸術が在ります。
だから寂しくありません!と、、豪語してやりたいけど、正直、時々寂しいときがあります。
毎日の小さな事を気兼ね無く共有しあえるパートナーがいて、なんでもない日常を暖かい気持ちで取り組み合い、心身共に密接に関連しあう相方がいることに憧れを持ちますが、なかなか、運命はそれを許してくれません。いつも、わたしには試練があります。あなたは孤独や苦しみの中から己を見つけなさい、と。
それは天命なのだと自覚してしていて、もはや、諦観の領域に達しつつあるところではあります。(ノックは3回までと言いたいところだ。)

そんなわたしの、所謂、逃げ道としての芸術の存在は、いつも、必要な場面でわたしに救いの言葉をくれます。わたしに触れてくる、世界の漲る言葉たちは、わたしがこの世界を生きていくために、必要な場面で現れてきます。まるで、特撮ヒーローです。
その救世主は、同じ性を持つ芸術家から享受することが多いです。(サガン、ヴォーボワール、瀬戸内寂聴、川上未映子、アイ・チョー・クリスティン、さくらももこ、などなど)

わたしの中にある、大切な、"寂しい"という気持ちが溢れ返るとき、それを一生懸命に掬い取るために、文学が必要となる。
常識的ではない感覚で人生を正当化してくれる可愛いらしいエゴがスクラップされて、そんな、恥ずかしくて身を背けたいような人間の羞恥の切り取りが、文学作品や音楽、造形等等から共感される。そしてそれはわたしを諫めてくれる。

まあつまり、これでいいのだ!と、他者のフィクションから自分を投影し、更に正当化することで心の温床を得るのだ。それは自分の恥ずかしさに蓋をする感じなのだ。

つい先に、なんとなく出会ったこの本は、タイミングの悪戯として得たわたしの近頃の出来事に対して、悲しくて強烈に苦しい反面、生きているという事を否応無しに見せつけるように、右利き右アッパーかまされると同じくらいに超痛くて、局所をキめてきた。

結論、
近頃、遠慮なしにわたしに訪れてくるピリリとしたモノガタリはすべて、必然であることを、その傷の治療者である"時間"という特効薬を待たずに文学によって理解される、ことなのです
ありがとう、ブックオフ。


出典:『愛と同じくらい孤独/フランソワーズ・サガン(朝吹由紀子訳)』新潮社

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