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20210217 / 自動共感装置と人形

 腹から溢れる臓腑に,欠損した肉体に,僕が痛めるのは自らの心なのか,魂なのか,あるいは身体そのものなのか.崩れ行く人形達に内側が痛むのはなにがどうして.ひょっとすれば,僕の大いなる理性が,肉体が,僕に「痛め」と命じ,僕はそれに呼応しているだけなのだとすれば,僕はその内側をほじくり出して,人形達に還すのだろう.それよりも僕は,自分自身がその臓腑に,肉体に,人形に,虚無に還ることを望むのだから.

この入れモノは誰のもの
入れモノの中身は誰のもの
満たされているはずなのに
満たされたいと願うモノ

gallery hydrangea 企画公募展『 満たされない入れモノ 』より

 友達の人形作家の作品を見に行ったお話.展示された彼の作品を見て少し驚いたのは,それが,マチエールとしての人形というよりかは,どちらかというと身体性を思案した作品だと感じたからだ.てっきり,彼は形代としての人形に息吹を吹き込むことに関心があるのだろうと思っていた.ここでいう息吹とは魂とか心とかとは少しニュアンスが違って,まあ魂や心の定義が自明でないからなんとも言えないが... ともかくとして,最終的に,僕はそういう芸者としての人形と見たものの写し鏡としての人形の違いについて,なんとなく考えたわけだ.

画家の女

 顔には経験や人格、手にはその人の歴史、足には苦悩や苦労を見るが、普段衣服で隠された胴体には何を見ることができるだろうか。現代の量産のために洗練された生地で隠し、守ってきた体には守りきれずに負った傷や色々な景色から受けた感動などを感じるかもしれないし案外何も感じずその人の虚構を見るかもしれない。
 カラダという入れモノに様々なものを詰め込んだり取り除いたりし、それが表面に現れ個体として存在する。公には隠され守られる胴体には何が表れ、それに何を感じることができるだろうか。

gallery hydrangea 企画公募展『 満たされない入れモノ 』/『画家の女』解説文より

 人間性について,つまり,人間の本質とはなにかということに対して,フィリップ・K・ディックなら,それは共感性と答えただろうか.社会という秩序体系を形成した人間は,獲物を狩って捕食する動物とは異なり,他者の苦痛や苦悩を,あるいは喜びなんかを自らのもののように感じる,感情移入という能力を得た.そして,その能力は,その秩序体系を維持していくために,倫理性として,自明に尊ぶべき神秘として,僕らのイデオロギーに刻み込まれている.

 だが,その感情移入,共感とやらの実体は何なんだろう.結局ただのエコーチェンバーか,「幸福を発明した」と言ってまばたきする最後の人間たちの空虚なメシアだろうか.腹から臓腑を零す人形に,その空虚な「心」を痛めるのが共感だろうか.情報の海に浮かんでは沈んでいく彼らのような自動共感装置が,そんなふうに人形達をテーブルの上で踊らせるのは,僕が夢見る原風景が奪われていくようで少し悲しい気持ちになる.

楪もこな

 テーブルの上にただ座る人形を瞥見し,部屋に佇んだ僕は,いつの間にかその写し鏡の向こう側で,小さな理性であるその魂を放棄した.糸に釣らされた人形が,時折誰の意図したわけでもなく,自我を持ったと喩えるにはあまりに無意識の優美を体現したように立ち振る舞うかのように,あるいは,糸の切れた人形が崩れ落ちた後の静寂のように.その入れ物の動から静への移行の感触は,風化した事物が感じさせる時間と存在の連続性とは,また違った,僕自身の不在を齎してくれる.

生死去来
棚頭傀儡
一線断時
落々磊々

世阿弥『花鏡』より

 だが,そんなふうに言葉によって語られることすら,人形達は望まないのではないのだろうか.死を,無意味を所与のものとしてこれを生きる彼らであれば,そういう意味性をきっと拒絶する.ひょっとしたら,不在を求める僕はそういう在り方に憧れがあるのかもしれない.

 生きるための道具として,手足を発達させてきた僕らは,身体を軽蔑し,その内側にある魂を尊び,そして没落していった.だがその実,その魂がその肉体が司る道具でしかないのなら,その胴体は肉体そのものの無意味さを体現し,そして,僕らがそこに最も尊ぶ自己の瞬きを見たのなら,それは僕ら自身と同様にある種の遺伝子の表現形なのだ.それはまことの共感か,それは共感を越えた人間の本質か,あるいは,それは人間の本質すらも越えた美しさではないか.