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日記 盛岡冷麺風冷やし中華

冷やし中華にキムチを乗っけて食べた。盛岡冷麺もキムチが乗ってるし、冷やし中華だってキムチを乗っけてもおいしいはずと思ってキムチを乗っけたらやっぱりおいしい。

どれとどれを一緒に食べたらおいしいみたいな勘はけっこう当たるから頼りにしているのだが、どちらかというと盛岡冷麺というインプットから出てきたんだろうから勘ではないのかもしれない。まあでも勘と呼んでおくとする。こういうインプットからくる勘というのは他にも経験したことがあって、たとえば数学をやっていて、こことここで消し合って式が綺麗になりそうだなとかそういうことだったり、絵の中でここにこの形があったらうまくいくぞということだったり、そういう勘を鍛えていくことが上手になるということな気がする。
ここで気になるのは盛岡冷麺は韓国風で、冷やし中華は中華風なわけじゃないですか。そこを大雑把に東アジアと捉える。その「大雑把さ」というのが料理という枠組みのなかで自由にやっていくうえで意外と重要な気がしてくる。それと同時に「狭さ」というのも全く逆だが使っていく必要がある。日本という国で作っているからこその制約のようなもの。冷やし中華のしょうゆ味ってそもそも中華じゃなくない?みたいなことは日本だから起こりうる。そこをキムチを入れて広げていく。その狭さを基にして広げていく行為を続けていくと自己肯定感?自尊心?が上がっていく気がする。
レシピを捨てよ、外食を思い出して家にあるものでやろう。

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