見出し画像

どこまで話すか、あらすじ、パフォーマンス、平坦な語り

友達がいまして、その友達たちと会ったら色々話すわけです。最近の生活とか、何を考えているかとか、出来事とか。何でも話せるのが友達と思っていなくて、この話はこの人にはできるけどこの人にはできないとかそういうこともあったりします。
何か大事なことががあったときにその人にどこまで話すかというのはよく考えていて、全く話さなければそんなこと考える必要もないのだけれど、話したいと思うものでもある。誰かに話せる/話せないみたいなことがある一方で話すときにどこまで話すのかということでちょっと考えるわけです。ここは隠しておきたいとかそういうことでなくてもどこまで詳細に話せば良いのかみたいなことです。
会話の中で何かを描写するとします。「そこに犬がいて」と言うのと「そこに太ったダックスフンドがいて」と言うときに異なるのは情報量だけではない。情報が入ってくる速度というか展開の速さが「太った」によって遅くなります。「太った」というのも4音の情報であることに変わりはないのだがそれが会話の中でそんなに意味がないと相手が判断した場合、その分相手は情報が増えたと思っていませんからゆっくりした会話だと感じます。
聞いている相手はゆっくり話をするモードだなとか適当に判断して情報をつけたり消したりして話を聞いている。
と思いがちなんだがどうやらそうではなくて「犬」と「太ったダックスフンド」というのは全く異なっているらしい。空気感だったりとかそういうのが伝わったりする。(かなり当たり前のことを言っているけどつまり必要な情報をかいつまんで話を聞いている人なんていないということ)
そういうふうにして語りの質というのがちょっとずつ変わってしまうから、長く話せばシリアスな話が短く話すと笑い話になってしまうとかそういうことがあったりすると最近気が付いて、短縮verと詳細verなどに話は分けられない(!)。
これはけっこう映画とか小説とかにも言えると思うのだけれど、「あらすじ」なんてものはそもそも存在しないから書いても無駄だと言える。というのは結構な人がわかってる気がするが僕はあらすじを読んでから映画を観ることもあるのでなんか意見がふわふわしちゃうようなのだが、あらすじは読んでも読まなくても意味はない。もし意味があったら(映画を観る必要がなくなったら)そのあらすじは完璧だったとあらすじの作者?を誉めるべき。なのになんで読むのかというと映画が苦手だからです。セックスシーンは退屈しちゃうし、怖いのはきらいだしそういう映画を避けたいということです。

会話の話に戻ると、どんな会話をすればその人に意図を伝えることができるのかデザインしていけばいいというふうになりそうな感じがする。でも意図を伝えることを目的として会話をすることって滅多にない。意図を伝えることを大概の人は会話と呼んでない気がする。
「醤油とって」
「はい」
→これを会話と言うのか?あんまり言わない気がする。
会話と言うとファミレスでする世間話とか、愚痴とかそう言うのを想像する。こういうのに意図はあんまりなくて、ぼんやりと相手とのリズムで言葉が出てくる。それが会話なのだとするとどこまで話すかを自分でコントロールすることなんてできない気もしてくる。結果的に長く話したということはあるかもしれない。
それに対してフィクションというのは一人で脚本を考えるから意図がいっぱいできてきて実際の会話や行動とかけ離れてキモくなる。広瀬すずが叫ぶ。
じゃあどうすれば自然になるのか、とか自然にしたらいいってもんなのかとか色々考えることはある。

濱口竜介が「イタリア式本読み」という脚本の読み合わせについて話していた。イタリア式本読みというのは基本棒読みで脚本を読むというものらしい。イタリアの映画監督ジャン・ルノワールがやっていた。それをやると演技が違うものになっていくらしい。

これは前に作った作品で、自転車で背中にカメラをくくりつけて作った映像をipadに流しながら電話で友達にその映像を説明しながら付箋を貼っていくというやつ。

これは即興でやっていったけど、なんでかうまくいった気がする。たぶん松吉(電話してる相手)がカメラを意識しないで話していることが大きい。カメラの存在というのはめちゃくちゃでかい。
僕たちはけっこう「イタリア式本読み」のように棒読みっぽく感情を込めないこと、感情を込めようもないことについて話す平坦な語りが大事だと思ってる。もう一つの現実みたいな空気感が出せる気がしている。それをあえて話し合ってたりはしなかったけどそういう共通認識があって前もやった。「穴を埋める」という作品。
作品でもどこまで話すかをよく考える。カメラがあるから話せることと話せないことがある。それは普通の会話とは違って、意図がある。これは言ったらやばいとか、個人情報とか。そういうことを考えつつ話すのは自然ではないけれど、平坦な語りをしていくことで、そういった穴が目立たなくなる。とはいえ普通の会話も相手に言っちゃいけないこともあるし、同じ部分もあるのだが…
(パフォーマンス的な面で言えば)そういうような作品であったりします。ぜひ見てください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?