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キュビスムがすごい、のではない

国立西洋美術館で行われている「キュビスム展 美の革命」を見てきました。

キュビスムとは何なのか。いろんな人の解説を読んだり聞いた入りしてもちっともわからなくて。

「空間や物体を立体で捉えるんですよ」

……なんで? なんでそんなことするの?

というわけで、キュビスム展に行ってきたわけです。

ピカソとブラックをはじめグリスやドローネー、レジェなどのいろんな作家のわけわかんない作品が並んででいます。

ただ、わけわかんないんだけど、「おっ?」と足を止めてみてしまう作品があるのも事実。

そんな風にキュビスムの作品を見ているうちにふと、「これこそまさに「アートいじわるクイズの答え」なんじゃないか」、と思えてきたのです。

「アートいじわるクイズ」とは、以前に僕が「反アート入門」という本を読んだときに思ったこと。

中世ヨーロッパでは絵画とは聖書の一場面を描き、神のすばらしさを表現するためのものでした。「神は偉大である。だから、その神を描いたこの絵も偉大である」と、絵画の価値は「神」によって保障されていました。そして、画家に求められていたのは神のすばらしさを巧みに描く技術であって、画家自身の創造性や芸術性などではなかったのです。

ところが、近代に入り、神は死んだ(byニーチェ)。科学の発達により、絵画の価値の源であった「信仰」が人々の絶対な価値ではなくなりました。もう宗教画に(そんなに)価値はない。ここで「アートいじわるクイズ」が出題されたのです。すなわち、「神の威光に頼らない、絵画そのものの価値ってなーんだ?」。アートとはすなわち、このいじわるクイズへの答えなのです。

というわけで、神の威光に頼らない、風景画や肖像画か描かれるようになります。しかし、ここでも「アートいじわるクイズ」が出題されるのです。

それって、絵そのものに美があるんじゃなくて、モデルになった人とか風景が美しいんじゃない? 絵画なんて所詮はモデルありきの、モデルの模倣。

じゃあ、モデルのよしあしに左右されない、絵画そのものの価値ってなーんだ?

というわけで、モネとかゴッホとかセザンヌみたいに、見た風景をそのまま描かずに、そこに自分のイメージとか思想とかを織り交ぜて描く画家が出てくるわけです。

そしてその延長線上にあるのが「もはやモデルが何なのかわからないキュビスム」と、「そもそもモデルなんていないシュールレアリスム」なのです。

キュビスムはモデルに似せることを徹底的に拒否したからこそ、絵がうまいか下手かという技術での評価が下せなくなるわけです。

技術での評価ができないからこそ、そこから伝わるイメージ、すなわち芸術性で判断するしかない。

たとえば、ドローネーの「都市 no.2」なんかは、どう見たって都市には見えないはずなのに、「ああ、これは都市だ。都市のイメージそのものだ」と感じてしまう不思議な魔力を放っています。

キュビスムの価値を支えてるのは、神の威光でもなければ、モデルに似てるかどうかでもない。画家の芸術性、我かが絵に込めたイメージの力そのものなのです。画家の芸術性がダイレクトに伝わるからこそ、キュビズムは評価されたのです。

つまり、キュビスムという手法自体がスゴイ、のではない。

すごい絵がキュビスムという手法をとっていた、のです。

さらにいえば、「この絵は絵そのものがすごいんだぞ」とダイレクトに主張できる手法が、キュビスムだったのです。

あ、「神は死んだ」までのくだりは「反アート入門」をもとに書いてるけど、そこから先はあくまでも僕なりの芸術史の解釈なので、あまりよそで言いふらさないように。


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